近所のたった1軒の苦情をきっかけに(と報道されていた)今月末での廃止が決まった、長野市の公園「青木島遊園地」――
この問題、こう言っては何だが、そんなに広くないたかだか一公園のことなのに、国民的な関心と「運動」が続くものである。
そして4月14日には、この公園の隣の児童センターの子どもらが
「ずっとわすれない あおきじま♡ゆうえんち だいすき♡ ありがとう♡」
と書いた模造紙を公園に貼ってそれをバックに記念写真を撮ろうとしたところ――
センターを管理する市社会福祉協議会が
「全ての子どもがそう思っているわけではない。こういうことをするのは子どもへの押し付けだ」
として、模造紙の掲示にダメ出しした。
この模造紙は、当の児童センターの職員が事前に「以前にセンターを利用していた小中学生」と相談して内容を考えて用意したものだったという。
(⇒ 信濃毎日新聞デジタル 2023年4月15日記事:【独自】公園に「ありがとう」、感謝の模造紙を掲げられず 封じられた児童の気持ち 青木島遊園地問題)
さて、この件について、ネットの書き込みは9割以上が「こんな対応は許せない、とんでもないこと」というものだろう。
上記の引用新聞記事の本文自体が「子どもたちが感謝の気持ちを伝えようとしたのを阻み、子どもの権利を侵害したことに識者から厳しい批判が出ている」と書いており、これは間違っても中立的な報道ではない(笑)
そして当然、後に続く「識者」らの意見も、「こんなことは許されない」の一色である。
しかし私は、決して逆張りを狙おうというわけではないが――
この件について、子ども側に立って憤激しようという気にはあまりならないのだ。
なぜならこれには、「推し活の害毒」と似たような香りが感じられるからである。
すなわち、「自分の推しの対象のやることなすこと全て正しい(エモい)、それを悪く言う者は無条件で即時に悪」と同じように、
「純心な子どものやることは全て正しい(エモい)、それを妨げることは絶対悪」
という公式が、まるで「正しい道徳」のように人々に根付いているのを感じるからである。
(⇒ 2023年4月13日記事:「推し活」害毒論-ジャニーズ性加害へのマスコミ忖度)
まず思うのは、この公園を利用していたという子どもたちがこういうことをするのは、はたして「自然な」心の発露だろうか、という根本的な疑問である。
端的に言おう。
あなたは子どもの頃、こんなことを自発的にしたことがあるか。したいと思ったことがあるか。周りに呼びかけたことがあるか。
私は薄情でひねくれた性格なのかもしれないが、こんなことをしようと思ったこと、周りに呼びかけようと思ったことなど、ついぞない(笑)
基本的に子どもたちにとってこういうこととは、「大人がやると言うから(仕方なく)参加する」というものではあるまいか――
と思うのは、邪悪な見方というものだろうか。
邪悪ついでにもう一つ、もし仮に今回のことが本当に子どもたちの自発的・自然発生的な思いの発露であるとすれば、それはそれでこう思うのだ――
もしあなたが子どもであれば、こういうことをしようと周りに呼びかける子どもがいたら、はたしてどう思うだろうか――と。
え、そんなことするの? メンドくさいなあ、自分はそんなことする気ないんだけど、でも断るのも断れないから、しょうがないから参加しとこうか……
というのがスタンダードな心の中だと思うのは、やっぱり邪悪な精神のなせる業だろうか。
しかし現在PTAなどは、まさにその構成員である親たちにこう思われているのが普通である気がするのは、気のせいだろうか。
そしてもし、これが子どもたちの純粋なる心で自発的に企画されたのだとすれば――
この子たちこそ将来「被災地に千羽鶴を贈るような大人」になるのだろう、と思ってしまうのは、許されざる不敬思考ということなるだろうか。
それにしても、思うのである。
この件についての世間の反応を見るにつけ、いわゆる「子どもをダシに使う」というのは、いまだに効果が抜群であるということを、
あのチベット仏教の総帥、ダライ・ラマさえもが「子どもを近くに据えて交流する姿をアピールする」ことをせずにいられないのも、無理はない。
(⇒ 2023年4月12日記事:ダライ・ラマ「私の舌を吸って」の性的虐待? 子どもと絡むのはもうやめよ)
今回の件だって、この子どもたちの活動が「大人の差し金、政治的利用」である可能性――とまでは言わずとも、「様々な背景がある」くらいのことは十分に考えられる。
そもそもこの公園廃止に至る経緯自体が、単なる近隣住民の苦情だけが理由ではない様々な事情・背景がある、と伝えられてきたではないか。
そういうことが直近で伝えられているにもかかわらず、いざ子どもが動けば、それを妨げる行為は非難一色に塗り潰される。
まあ、こんなことを書きはしたが、私にしてもこの程度の掲示と記念撮影くらいは、きっとOKしただろう。
だがそうしなかったからといって、一方的に非難しようとは思わない。
こういうことにどんな背景があるかなんてことは、当事者でなければわからないからである。