プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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具材1点だけの激安弁当は人々の共感を呼んでいる説

 具(おかず)が1点しか入っていない弁当のシリーズが、いま日本で増殖している。

 それはしばしば「貧乏弁当」などと呼ばれ、日本がいかに衰退・貧困化したかを象徴する商品サービスの代表格にもなっている。

(⇒ 東洋経済オンライン 2026年10月22日記事:「ソーセージだけ」「塩鮭だけ」ローソンの300円以下"貧乏弁当"が話題→「日本の貧困化」だけではない激安弁当人気の背景)


 さて私は、こういう一点突破弁当・一点豪華主義弁当のことを単に「単品弁当」と呼ぶのが一番中立的だと思う。

 そしてまた、そういう単品弁当が廉価弁当である限り、その種類が増えることを歓迎したいと思っている。

 世の中には、しょせん食事なんて人体に必要な燃料補給に過ぎないとナチュラルに割り切っている人たちがいる。

 食事なんて腹が満たされれば皆一緒、安いに越したことはないと考える人が大勢いる。

 かつ、そんな人たちだって、何も1日3食の全てでこんな弁当を食べているわけではない。

 1日1食はこの手の弁当を毎日食べるからと言って、何もおかしいことはないと思うからである。

 
 また、そういうこととは別に――

 実はこの種の弁当は、「日本もここまで貧しくなった」と嘆く人を生み出す一方で、全く反対に人々の「共感」を生み出しているのではないか、とも感じる。

 それは「コスト削減」「安いことはいいことだ」という現代日本人の一般道徳に合致し、かつ象徴するものだからだ。

 なるほど、「安さは正義」式の考え方こそが「安い日本」「いつまで経っても給料が上がらない日本」を生み出したのだという話も、かなり世の中に定着してはいる。

 しかしそれもいわば「表向き」の話であって、じゃあ自分の実生活で「あえて高い方を選ぶ」生き方をしている人は、そんなにいないのではなかろうか。

 同じく「コストカッター」などと人を呼ぶのは今ではむしろ悪口の範疇かもしれないが、しかしやっぱり「コスト削減」というものは、ほとんど全ての社会人にとって善なる目標・追究すべき使命という意識認識であり続けている。

 そしてもちろん、単品弁当はコストカットを突き詰めた末の産物である。

 上記引用記事によると、具材を1種類に絞ることにより同サイズの弁当に比べ、販売価格は最大5割も削減することができたという。

 また、さらに言えばそれは、「勇断」の産物でもある。

 弁当と言えば色とりどりの多種類のおかずが入った、バラエティに富んだものである・あるべきだ・そうじゃなきゃならない――

 要するに今、単品弁当が受けている「ここまで貧しくなったか」式の批判・慨嘆は、初めから受けるのがわかっていたものであった。

 それでもあえて発売を決めたのだから、これは世の「ビジネススーパースター列伝」で必ず(むろん感動要素として)使われる勇断エピソード以外のなにものであるだろうか。

 この「コスト削減」「安い」「勇断」の3点セットが揃えば、大方の現代日本人の賞賛や共感を得ない方が不思議なのだ。

 だがしかし、もっと踏み込んでみよう……

 単品弁当に共感する人・好んで買って食べる人の中には、そんな弁当は貧しさの象徴だなどと言う人に対し、

 「うるせーんだよ、まだそんなこと言ってんのか、この老害が」

 とさえ思っている人が多いのではないか。

 多種多様な具材を一つの弁当に詰め込めば、コストが高くなり販売価格が高くなるのは当たり前である。

 それを1種類に削減すれば劇的に安くなるのは、「誰でもわかる」し「昔から誰でもわかっていた」。

 こんな単純なことを理解できない・受け入れられないのは「老害思考」に違いない、と決めつける――

 これは「老害」という言葉が何にでもかんにでも使われるようになった現代において、実に普遍的な考え方だと思う。

 つまり廉価な単品弁当を批判・揶揄することは、すぐに老害認定されることに繋がるかもしれない……
 
 少なくともコストカットや「取り除く・減らす」という企業戦略的・マーケティング的な思考を理解できない、頑迷で愚かなる存在とみなされるかもしれない、ということだ。

 たかが弁当しかも単品弁当、されど人々の思考を表象するものでもある弁当――

 商品というのは、何であっても奥が深いものである。

 

 

「肉をパックのまま食卓に出す人を叩く」というアンチ精神病?の蔓延

 小さな事件にこそ、人間世界の真実が宿る。

 どうでもいいようなニュースにこそ、人間の真実が宿る――

 これは昔から私が感じてきたことなのであるが、その格好のサンプルみたいな話題がつい先日生じた。

 アンチの多いことで知られる(らしい)元AKB48で現タレント・実業家の板野友美が、10月15日放送のABEMA TVの番組『エイジレスボーイズ』で密着取材を受けたのだが――

 その家族で鍋を囲むシーンにおいて、スーパーで買った肉がパックのまま食卓に出されていた。

 それを見た視聴者(むろんアンチ板野友美に決まっている)から、

「そんなことしてるのは育ちが出る」

「パックごと出して食べることを恥ずかしいとは思わないんだろうね」

 といった趣旨の批判が出たというのである。

(⇒ 東洋経済オンライン 2026年10月19日記事:なぜ「育ちが悪い」と言えるのか…板野友美「肉パックを食卓に直置き」を叩く人たちに欠けた"人として大切"な視点)


 いやはや皆様、どう思われるだろうか。

 私にはこれ、目の付け所が違うというか、まさに斜め上の発想だと感じずにはいられない。

 大袈裟に言えば、こんなことを捉えて批判する・批判する頭になるというのは、超現実的でアンビリーバブルなことだと思えるのだ。

 もっと大袈裟に言うならば、こんなことで育ちが出る(=育ちが悪い)だの恥ずかしく思わんのか、などと感じる人は、一種の精神病ではないかとまで思うのである。

 私はもちろんこういうとき、スーパーで買った肉を(しかもすぐ鍋へ投入するというのに)わざわざ皿に盛り付けることなどしない。

 そんなことする人こそ頭がおかしいんじゃないかと感じさえする。

 これは刺身の場合も同じで、スーパーで買ってきた刺身はパックに入ったまま(醤油とワサビは別皿にするとしても)食うに決まっている。

 いったいそれをわざわざ皿に盛り付けるなど、私にとってはどう考えても無駄な手間である。

 洗い物を増やし、即ち水の使用量も増やすという面では、反エコと糾弾してもいいくらいである。

 しかしどうやら世の中には。そうしないのは育ちが悪い人間だと糾弾する人がいるらしいのだ。

 これは(またしても大袈裟に言えば)、恐ろしくも驚異的なことではあるまいか。


 いや、もちろん私は「肉も刺身もスーパーで買ってきて食べるときはちゃんと皿に盛り付け直す」人のことを変人だの神経質だのと糾弾しようとは、ほんの少しも思わない。

 そうしたい人、そうせずに気持ちが収まらない人というのは当然いるだろうし、それが異常なこととまでは思わない。

 だが、「今から鍋に投入する肉を、あえて皿に盛り付け直す」「今から食う刺身を、あえて皿に盛り付け直す」ことをしない人を糾弾・批判・蔑視する人というのは、これはもう精神異常の域に達していると言ってもさほど間違ってはいないと思う。

 しかしやはり、彼ら彼女らは精神異常者ではないだろう。

 それなのに精神異常者に非常に近い批判をしてしまうのは、やはり「アンチ感情」「アンチ立場」のなせるわざとしか言いようがない。

 いったん心が誰かを嫌いと決めたなら、もうその誰かがやることなすこと、鵜の目鷹の目でアラ探しをせずにいられないのである。

 ああ、しかし、これはやはり「アンチ病」という精神病の一種と数えるべきだろうか。

 この病気に罹患している人は、世の中に何百万人・何千万人といそうではないか?

 そう、やはり、こういう小さなどうでもいいような「事件」にこそ人間世界の真実が宿る――

 アンチ板野友美病の人、それ以外のアンチ****病の人たちは、今後も常人には考えもつかない点を捉えて、奇想天外な批判を繰り返すに違いない。

 もっとも今回の奇想天外批判は、上記引用記事が述べているように、さすがに不発の的外れに終わったようだが……

 

 

 

未成年SNS禁止は世界の潮流…なのに日本の「欧米出羽守」が出てこない不思議

 10月15日、ドイツ政府は、13歳未満の子どものSNS利用を2027年以降禁止する方針を閣議決定した。
 
 しかもこれは「EU(ヨーロッパ連合)全体で年齢制限するまでの暫定措置」だとしており、つまりEUはその全域――当たり前だがヨーロッパのほぼ全域――でSNS利用を年齢制限しようとしている。

 まさしくこれは世界の潮流であり、それが言い過ぎだとしてもヨーロッパの潮流であるのは間違いない。

 そしてヨーロッパではないがヨーロッパ系の国オーストラリアでは、世界に先駆けて(2025年12月)16歳未満にはSNSのアカウントが持てないようにした。

 もしこれに違反すれば、その子や親ではなくSNS運営会社が巨額の罰金を食らう仕様である。

(⇒ テレビ朝日 2026年10月15日記事:ドイツ 13歳未満のSNS禁止へ 2027年以降に施行予定 子ども向けサービスは例外)

(⇒ Impress Watch 2026年6月25日記事:世界に広がる未成年のSNS利用禁止 日本はどうなる?)

 さて、ここで不思議なことがある。これは皆さんも不思議に思っているはずだが――

 この日本では、「未成年者のSNS利用禁止」が全く大きな声として聞こえてくることがないのである。

 昔ほど露骨でないかもしれないが日本人は――と言ってしまっては「主語が大きい」とか言われるかもしれないから――、少なくとも日本のメディアは、「欧米はこのように進んでいるのに、日本は立ち後れている」と論じるのが大好きである。

 「欧米」は「世界」と言い換えられることもあるが、しかしそこで言う「世界」とは「欧米」のことであるのは当然の前提とされている。

 ジェンダー論の世界では「世界」の内にアフリカ諸国が入ることはあっても、決してイスラム諸国が入ることはない。

 「欧米では」といちいち引き合いに出して日本の遅れを指摘する者は「欧米出羽守」と揶揄されるのが定番だが、しかしそれでも「欧米はこうなのに、日本は……」式の思考は、もはや日本人の脳髄に染み込んだパターンと言っても過言ではないだろう。

 ところがなぜか、これほど明確に欧米が未成年者のSNS利用禁止へ傾いているというのに、この分野では「欧米では、世界では」の声は報じられない。

 同性婚や男女不平等の分野では、メディアはたびたび「そういうのを是正するため頑張っている人たち・団体」の活動を好意的に報じるものである。

 そういう記事を見ないことの方が難しいくらいなのである。

 ところが未成年者のSNS利用禁止という分野では、日本におけるそのような主張はほとんど全く報じられない。

 そもそもそういう人たちや団体が、日本には全くいないようにさえ感じられる。

 未成年者のSNS利用禁止に賛成する人は、日本にだってそこまで少ないとは(少なくとも私にとっては)とても思えないのに、である。

 これはいったい、なぜなのか。

 オーストラリアやヨーロッパ全域がそういう方向に動いている、と聞けば、普通の日本人なら「日本もそうしなきゃ」と少しは心が動きそうなものだ。

 これ以外の分野ではたいていそうなのだから、それが正常というものだ。

 なのにどうして、ここでは突然に一斉に普通でなくなってしまうのか。

 なるほどこれがメディアだけの話であれば、SNS運営企業に忖度している、広告宣伝企業(つまりメディアのスポンサー)の利益を損じることを恐れている、総じて言えば強欲資本主義に毒されている、などという陰謀論めいた理由がいくつでも挙げられそうではある。

 しかしもしかしたら日本のメディアは、そんなことを報じたら日本人に受け入れられない・反発を招く・ウケが悪い、と思っているからこそ――これは「一般日本人への忖度」とでも言えようか――、そういうことを報じないのだとも考えられる。

 またメディアだけでなく(立場の左右に関わらず)政治家にも、たぶん1人として未成年者のSNS利用禁止を主張する人がいないのも、やはり選挙民の支持を得られない・反発を受けると思っているというのが理由なのだろうか。

 そういう「懸念」が正しいとすると、日本人の大多数は本当に未成年者のSNS利用禁止に反対し、反発し、そんなこと言うヤツを糾弾しようという人たちであることになる。

 そしてなんだかそういう構造は、「外国人が入れ墨するのはいいが、日本人がやるのは許せない」という“日本人気質”によく似ているような気もする。

 外国人が(特に一目で日本人でないとわかる)欧米白人が未成年者のSNS利用禁止をするのは「まあしょうがない許せる、文化の違いだから、ヨソの国だから」。

 しかし日本においてそれをするとなると、「やり過ぎだ、不当な自由の抑圧だ」――

 こういう思考構造・感覚構造が日本人にはあるというのは、結構ありそうなことではないか?

 なお、もう一つ「欧米では潮流なのに日本では一切そんな主張が報じられない」ものとしては、「徴兵制の復活」がある。

 ひょっとして日本人の意識では、徴兵制の復活と未成年者のSNS利用禁止というのは、同種同列のものではないか。

 いくら欧米出羽守精神が染みついているとしても、「これだけは染まらない」という分野がやはりあると思うべきではないか。

 それこそが現代日本人の民族性の核心を示している……と考えるのは、曲解というものだろうか。