4月2日、静岡県の川勝平太知事は、この6月末の県議会をもって辞職するとの意向を示した。
その前日の4月1日、静岡県庁への新入職員への挨拶の中で、
「実は静岡県、県庁というのは別の言葉でいうとシンクタンクです。
毎日、毎日、野菜を売ったり、あるいは牛の世話をしたりとか、あるいはモノを作ったりとかということと違って、基本的に皆様方は頭脳・知性の高い方たちです。
ですから、それを磨く必要がありますね」
という、オイオイと誰もが反射的に思ってしまうような発言をしたことが、大きな話題になったばかりであった。
まず不思議に思うのは、この新入職員への挨拶(訓示)というのは川勝知事自身が書いたものなのか、推敲も川勝知事自身しかしなかったのか、ということだろう。
もちろんこういうものの原稿を自分で書くトップというのは多いが、しかし人に書いてもらう(部下に仕事として書かせる)トップもまた多い。
しかし川勝知事は周知のとおり「学者政治家」である。著作も何冊もある。
ここは「自分一人で書いた」と信じておいてもいいのだろう。
次に推敲だが――これも想像に過ぎないが――自分で読み返してみるのは当然するとして、
たとえ部下にも推敲してもらうにしても、それは誤字脱字のチェックに留まるような気がする。
おそらく県知事の部下の立場としては、学者知事の書いた文章に「手を入れる」なんて、恐れ多くてとてもできないことなのではないだろうか。
もし今回のスピーチの原稿を事前に読んだ人がいるとすれば、必ずや「こんな職業差別的なことを言ってはまずいだろう」と気づくはずだ。
しかし、仮にそうだったとしても、川勝知事はそのまま原稿を読んだ。
部下が「ビビッて」「萎縮して」あるいは「まぁいいやとスルーして」知事に原稿を返したのは明白である。
このスピーチの中で川勝知事は、「私の知事室のドアは開けっぱなし」と言っているようだが――
非常に多くの日本企業のトップがそういうことを言うものなのだが(笑)、実際はそれほど風通しは良くない、むしろ「組織の病理」がやはりここにもあった、と立証したようなものではなかろうか。
さて、言うまでもないが、川勝平太という人物は著名な学者である。
日本の学者業界の中でも、トップクラスの知名度を誇っていると言っても間違いではない(だからこそ知事選に通るのだ)。
特に「文明の海洋史観」というフレーズは、ある程度以上の年代の層には「何となくそういう言葉を聞いたことがある」と思わせるほど、かつて一世を風靡した言い回しだろう。
だが、たぶん現代日本では「大学者」「碩学」と言っていいはずの学者にして、こんな誰が聞いても職業差別観まるだしみたいな言葉を――本人にとってはそう受け取られるのは意外らしいが――、堂々と新入職員への訓示に織り込んでしまうのである。
そこで思うのが、「川勝平太ほどの学者にしてこれならば、他の学者なんていったいどんなものだろう」という直感である。
また思うのが、メディア界、特に新聞業界における「学者の重用」現象である。
新聞業界における学者の重用とは、何か。
それは、まるでそうするのがオキテであるかのごとく記事の末尾に学者(有識者・専門家と表記されることもある)のコメントを載せ、しかもそれがほぼ100パーセント政治批判か行政批判のコメントであることだ。
そしてあなたは、思わずにいられないだろう。
もし川勝平太という人物が知事などにならず学者のままであったなら、まさにその「末尾コメント」の常連みたいな存在になっていたのではないか、と。
静岡県政や日本政治の哲学のなさ、文明史観の欠如、学術への理解の浅さなどを批判する「役」に打ってつけの末尾コメンテーターとして、メディアに重用されていたのではないか、と。
そしてそれを読んだ何十万人かが、「そうだよなぁ」とか思ってたんじゃないのか、と……
しかしそういう大学者または花形末尾コメンテーターも、その実態は「この程度」なのだ。
あるいは、いざそんな人物が政治実務に携わってみれば「本性が露呈する」と言うべきか。
総じて、どうも世間の人は、学者というのを過大評価し過ぎだと思う。
いや、コメンテーターを過大評価し過ぎだと言った方がいいか。
私は川勝平太氏に限らず、学者の中のかなりの部分が「この程度」なのだと思う。
学者は学問技芸者であって、武士は戦闘技芸者であって、別に他の人間より人間としてのランクが上なわけではない。
人は誰しも「ただの人間」であって、秀でた分野や性格が多少違う程度である。
世が世なら、川勝平太氏が政治家知事になっていない世界なら、我々は川勝平太氏の新聞記事末尾コメントを、権威をもって聞いていたに決まっている――
そう考えると、学者の重用というのは実にバカバカしいものに見えてこないだろうか。