この暑い夏、いったいいつになったら日本人はマスクを外せるのか――
と思っている人は多いはずだが、しかし一方では「いつまでもマスクを外したくない」人も多いらしい。
中でも(意外なことに?)若年層、特に子どもたちが外したがっていない、というのはよく報道されている。
そんな報道がまた一つ、あった。
(⇒ 上毛新聞 2022年7月15日記事:「素顔 恥ずかしい」 小中学生のマスク、猛暑も習慣化で外しづらく 指導に難しさ「強くは言えない」)
なんとまあ、このクソ熱いのに、小中学生たちはマスクしたままリレーや走り幅跳びをやっているという。
ソフトテニスもそうだという。
かくいう私も仕事中や通勤中、買い物のときなど、周りに人がいるときは「もちろん」マスクをしている。
しかし外を歩いていて明らかに一人でいるとき、車の中にいるときなどは、「もちろん」マスクを外している。
いわば平均的な日本人の一人と言ってよかろうか。
とはいえ、マスクしたまま走ったり運動したりするなど、とうてい我慢できることではない。
むしろそんなことができるということ自体、肉体的・精神的な途方もない強さを感じる。
なんだか「若いっていいなぁ……」などと思ってしまうのだ。
そして子どもたちがそこまでして「自発的に」マスクを外したがらないのは、
「友達とおしゃべりできなくなる」
「別人になるから嫌」
なのだそうだ。
なんでも世の中には、
「顔を見せないよう、マスクを着けたまま少し浮かせて食べる」
「保健室での食事を希望する子どもがいる」
という。
女子生徒の中には、
「顔を見せることがとても恥ずかしくなった」
「コロナが終わってもマスクは取りたくない」
という声もあるという。
私はこれを(無責任ながら)、非常に興味深いことだと思う。
新型コロナの世界的流行から3年、たった3年で、この極東の島国は「国民総マスクマン・マスクウーマン」化した。
そしてそれは、「大切な、守るべき我が国の文化」にまで昇華しようとしている。
もはやこうなっては、マスクを外そうと言おうものなら「人権侵害」と言われそうな勢いではないか。
もちろんコロナ以前から、「日本人のマスク好き」は知られるところではあった。
だがコロナは、ついにそれを日本の文化・習慣にまで押し上げたのだ。
それも感染予防が本当の目的ではなく、「素顔を見られたくない」という心の内からの切なる願いを目的として……
(これこそ文化だ、と言いたくならないだろうか。)
これは有名なことだが、中東や西アジアのイスラム文化には「ブルカ」「ニカーブ」などという女性の服装がある。
顔をヴェールで完全に覆うか、あるいは目だけ露出する「あの」服装である。
これは外部の世界から、しばしば女性抑圧の象徴として受け取られている。
ところが日本では、いまや(むろん全員ではないが)女性自らが、それも少女年代の女性たちが、自ら好き好んでマスクで顔を隠すのを望んでいる。
いわば日本の顔マスクは、日本版ブルカ・簡易版ブルカといったところだろうか。
そういう文化が21世紀の日本で広まり、定着しようとしているなんて――
しかも若い世代の支持でそうなろうとしているなんて、なんと興味深いことだろう。
そして彼女らが大人になるとき、世界では日本女性を示すイラストとして「マスクを着けている女性」の姿が描かれる――
のかもしれないなどと思うと、
民族の文化の移り変わりの面白さにトキメいてしまう(笑)人も、いるのではなかろうか。