コロナ禍になる前から、日本人は大のマスク好きであった。
もしかしたら「世界一マスクが好きな(人が多い)国民」とさえ言えたかもしれない。
それが今、ますますマスクが「手放せない」「外したくない」という人が増えているという。
それはコロナ感染を防ぎたいからという理由ではなく、
「素顔を(あんまり美人じゃない顔を)見られたくないから」
「表情を読まれたくないから」
「話したくないアピールができるから」
という理由かららしい。
(⇒ 中国新聞 2021年12月6日記事:「残念な顔」と思われたくない コロナ禍でマスク外せない若者続出 「もはや『顔パンツ』」の声も)
上記引用記事は、メンタルクリニック院長の言葉で締められている。
まず「若者のマスク依存」は「対面コミュニケーション不全の一つ」であり、
人との直接的なやりとりに苦手意識を持つSNS世代の「新たな現代病」になりつつあるという。
マスクするということは、顔を覆って自己防衛し、コンプレックスや自信のなさをカバーするものだとしている。
ここで誰もが思いつくに違いないのは、イスラム圏の女性たちのことである。
特に厳格なイスラム圏での女性たちが、「目だけしか露出しない」ブルカ、ニカブ、チャドルなどといった服を着用しているのを知らない人は、ほとんどいない。
同時にそういう風習は、イスラム圏の「女性抑圧」の表れなのだと、普通の人は思っている。
だがしかし、どうだろう――
今まさに日本では、自主的に「顔を隠す」「表情を隠す」ことを選ぶ人が増えているということではないか。
世の中では「形から入る」ということがよく言われるが、何だかこれは「形からイスラム化する」とも言える気がしないでもない。
これは我々のイスラム観を、かなり変える素材である。
多くの日本人が抑圧どころか進んでマスクを着けたがっているということは、厳格イスラム圏の女性たちもまた進んで「目しか見せない」ことを選んでいる、という流れにはならないか。
また、特に女性の日本人が「素顔を見せたくない」からマスクを着ける、と言うのなら――
いっそのこと、体の線を見せたくないから全身を布で覆う厳格イスラム風の服を着る、
という流れになるのも、ごく自然で当然のことのように思える。
考えてみればイスラム女性の「目しか見せない」姿というのは、世に言う「ルッキズム(見た目至上主義)」へのキッパリした拒絶の表れである。
あの服装には、自分を(自分の妻や娘を)「性的な目で見させない」「美醜の品評の的にさせない」という意思がこれ以上なく現れている。
厳格派のイスラム教は、ルッキズムを否定し発生させない点において、現代社会の最先端を行っているとも言えそうだ。
(そして厳格イスラム圏の女性たちは「対面コミュニケーション不全」という「新たな現代病」を患っているのかどうか、メンタル関係の医師たちに聞いてみたいものである。)
おそらく厳格イスラム圏の女性たちは、
「ミニスカートを穿く権利と自由」
「フトモモを露出して街を歩く権利と自由」
「胸をアピールする・胸元の切れ込みの深い服を着る権利と自由」
なんかは、欲しいとも思っていないだろう。
それは冒涜的というか考えられもしないというか、とにかく「不必要な自由」に思えているだろう。
それはちょうど、日本人の我々が「街中でオナニーする権利と自由」を求めないのと同じ感覚であるかもしれない。
我々は「目しか見せない」服を着ている女性たちが歩いているのを見ると、「ああ、イスラムの街だ」と思う。
それと同じく今後の外国人は、「過半数の人がマスクを着けている」街を見て、「ああ、日本の街だ」と思うようになるのだろう。
今後ハリウッドで現代・近未来の日本を舞台にした映画が作られるに当たっては、本当にそういう描写になるのではあるまいか。
日本がイスラム化する、なんてことは全然ありそうにないことに思えるが――
しかし「形から入る」という形で、日本がイスラム圏とたいへんよく似た習俗に「進んで」なる可能性は、かなりありそうに思うのである。