ついに東京地獄五輪、いや東京オリンピックが始まった。
記念すべき7月23日夜の開会式は、「日本の誇る」ゲーム音楽が流される中で行われた。
(アニメソングではなかった。管野よう子の「信長の野望」からもチョイスされなかった。これはやや残念である。)
これはたぶん(日本における)サブカルチャーの勝利、世界に通じる日本文化とは即ちサブカルチャーであることの象徴のようなものだろう。
そして選手入場式については、たとえどんなに東京五輪に反対の人だろうと、やっぱり楽しく見れたのではなかろうか。
全くの蛇足ではあるが、私としては「なぜこんなに外国の女性オリンピアンはほとんど美人なのだろうか」という思いを抱かざるを得なかった。
(例の「カザフスタンの美人旗手」36歳だけでなく、ホントにほとんど美人である。)
これはたぶん、私の女性の好みが外国美人であることに起因するのだろう……
閑話休題。
しかしプロレス観戦者としては、「入場が一番盛り上がる」試合・大会というのが多々あることを知っている。
さすがにオリンピックでは17日間も毎日何かの試合があるのだから、そうはなりはしないだろうが……
このコロナ禍の中でやるからには、ぜひ大盛り上がりになっては欲しいものである。
ところで皆さんは、今回の入場式で何が最も印象に残っただろうか。
それはもしかしたら、長嶋茂雄氏の(目を背けたくなるような)衰えぶりではなかったろうか。
もちろん、長嶋茂雄の体調が良くないことはわかっていたが――
その隣で元気そうな王貞治と対比するとき、何とも言えず胸を突かれた人はとても多かったはずである。
大変不謹慎ながら、「もう長くないな」と感じなかった人は本当にいるのだろうか?
あれは正直、見たくなかった光景である……
気を取り直して言うと、私が良かったと思ったのは「ドローンの群れ(1824機)による空中地球儀」だった。
あれは皆さん、そう言われるまでは空中に(何とかして)光を投影しているのだと思いませんでしたか?
それがドローンによるものだとは、非常にビックリである。
と言うかあれだけが、「日本は技術先進国」という(もう昔のことかもしれない)イメージをアピールできていたのかもしれない。
そして最後に、思うことがある。
それは、どうしてこんなに日本という国は、こんなビッグイベントにおいても「寸劇」が好きなのだろうか、ということである。
いや、なだき武をはじめとする、あの「テレビスタッフ演劇団」の皆さんを悪く言おうというのではない。
劇団ひとりのコントロールスタッフ役を悪く言おうというのではない。
それはただ、与えられた仕事をやっただけである。
しかしそれらが開会パフォーマンスで何かプラスになっていたか、何か脈絡になっていたかというと、そんなことはなかったと言うしかないのではないか。
それにしても、本当に不思議なのだ。
なにゆえ日本人は、これほどのビッグイベントのパフォーマンスにまで「寸劇」を入れずにいられないのだろう。
それは幼き日の学芸会の記憶がそうさせるのか、強迫観念でもあるのか、それともこれもまた日本文化なのか……
案の定というか、今回の開会式には「ショボい」「史上最低」などという声も高いようである。
もっとも、この大批判の中の開会式であるから、これでもかとド派手なことをやったらそれはそれで反発される。
また、開会直前になってバタバタと(それこそサブカル系の)演出担当者がいなくなったことも考えなくてはならない。
それにもしかしたら今回の開会式のコンセプトは、「倹約」ということであったのかもしれない。
(それはそれで、どれだけの経費がかかったか教えてほしいところではあるが……)
しかしそれでも、思うのである。
寸劇をやるならやるで、もうちょっとパフォーマンスの流れに絡んでくるような使い方はできないのか、と。
全体的に今回の開会式、一言で言って「ブツ切り」でまとめられるような出来だったと思う。
それぞれのパフォーマンスは単発ブツ切りで、ストーリーというものはなかったと思う。
しかしあの「ピクトグラム」を体で表現したパフォーマーの皆さんには、素直に敬意を表したい。
あれをやり通す緊張は(顔は見えないとは言え)、いったいどれほどのものだったろう。
ある意味あれは、五輪選手のパフォーマンスを凌ぐくらいの素晴らしいものであったと思う。
そしてもう一つ、天皇が開会宣言を述べているときに席を立たなかった(途中で気づいて立ったが)菅首相については、またまたヘマをしでかしたなぁと思ったものである……