現代のトレンドとして「ゲーミフィケーション」などがあるが、間違いなくその一つが「ジェンダーレス」である。
また、もう「LGBT]ではなく「LGBTQ+」が“正しい”名称らしい。
(たぶん、これくらいが憶えられる限度だろう)
そしてジェンダーレス制服に続き、今度は(本丸と言うべきか)ジェンダーレス水着が登場した。
(⇒ よろず~ 2022年6月9日記事:ジェンダーレス水着が開発された 性の問題に限らず「体形や肌を露出したくない」生徒の思い反映、選択は自由)
時代はもう、ジェンダーレスまっしぐらに動いている。
おそらくこのジェンダーレス水着も、急速に世の中に普及するのではなかろうか。
引用記事中にもあるように、ジェンダーがどうとか言う前に、とにかく自分の肌や体形を人に見せたくないという人は男女を問わず多いらしい。
現実世界では極少数派のジェンダーレスパーソンだけでは世の反発を買うかもしれないが、一般人の「露出忌避派」の支持と需要があれば、これは全国の学校に数年中に普及できると考えられる。
と、そこで思うのだが――
この日本の傾向は、結局はあの「女性が目だけを出して他は隠す」という厳格イスラム教世界へ近づいていくのではあるまいか。
逆に言うと厳格イスラム教世界は、その他の世界の未来を先取りした、先進・最先端の習俗を既に確立しているとは言えまいか。
そういえば日本人の中には、たとえコロナ禍が終わっても「マスクを外したくない」人が多いらしい。
いや、コロナ前でさえ、日本人のマスク好き(の割合が多いこと)は有名であった。
それらは要するに、素顔や素肌や体型を見せたくない、との需要が高いということだ。
そしてその完成形・到達点が、全身を布で覆う厳格イスラム教ファッションであることは疑いない。
ああいう格好をしさえすれば、女性はほぼ完全に性的な視点から免れることができる。
(もっとも、厳格イスラム圏の女性はわずかに露出した目や手の先へ、性的な視線を向けられているのかもしれないが……)
そしてさらには、これも現代のトレンドである「ルッキズム」の悪弊も排除できるというものだ。
ということで、その前段階たるジェンダーレス水着の将来は明るい。
かつて学校からブルマが絶滅したのと同様、従来の水着は完全になくなってしまって、ジェンダーレス水着が「当たり前」になる日はそう遠くないと思われる。
なぜならジェンダーレス水着がある程度普及してもなお従来型水着を着る男子・女子というのは、
「露出指向」の「目立ちたがり屋」「あさましい人間」
と見られることがほぼ確実で、みんなそう思われたくはないからである。
だが、そうは言っても、本当に未来の日本が厳格イスラム教世界を完コピして「全ての女性が肌や体形や顔を隠す」習俗になるとは想像しがたい。
となると未来の日本人は、「肌や体形や顔を露出できるのは、選ばれし女性だけ」みたいな観念を持つようになるのかもしれない。
要するに、そういうのをウリにできる(していい)女性は、一般女性とは違う貴族階級みたいな見られ方をするようになるのだろう。
即ち「目立ちたがり屋」として蔑視するのではなく、逆に賛美するようになる。
と、こう書いてきて思うのだが、まるでこれは今現在の日本社会そのまんまである。
今ほど美人がウリになりカネになる時代はなかったが、これからの未来はますますその延長上にあるだろうと予想される。
美しき生得貴族の女性はますます優位になり、そうでない女性(あるいは内気な女性)との差は、収入面でなくそもそも服装や顔・肌の露出度の面でもますます開く。
言ってみれば、灰色の多数の中で少数の赤い点がますます目立つようになる、というようなものだろうか。
まったく無責任な感想であるが、未来の日本がどうなっているか楽しみである。
そこには全身を布で覆った女性ばかりが街を歩いており、
学校ではまるで第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時代のような(全然セクシーではない野暮ったい)デザインの水着ばかりを着た生徒らがプールで泳いでおり、
しかしネットなどのコンテンツの中でだけは、思い切り顔や体を露出した貴族女性らが栄華を誇っている――
なんて「変形イスラム化」「日本型イスラム化」した情景が広がっているのだろうか。
明治維新の時の習俗の変化のことを思えば、そういうのも決して夢物語ではないと思うのである。