昨年大晦日のボクシングタイトル戦で、塗り隠していたタトゥーが試合中に剥げて露出してしまった、WBO世界スーパーフライ級王者の井岡一翔(31歳)。
1月22日に日本ボクシングコミッションが下した処分は、「厳重注意」であった。
ハッキリ言ってプロレスファンにとっては、入れ墨を入れた選手を見ることに何の抵抗もないであろう。
そんなのは普通に大勢いるし、テレビで(CSだが)さんざん映されている。
入れ墨なんて、プロレス界ではごく普通の光景なのだ。
だが、一般世間の入れ墨を見る目はまだまだ非常に厳しい。
今回の井岡についてはもちろん、この「軽い処分」に対しても、さんざん批判が集まることだろう。
ただ、それが日本の(こういう言い方も何だが)ガラパゴス的感性である、というのは日本人もわかってはいるのである。
今の世界標準は、入れ墨を問題としない。それは(どうでも)よい。
しかし日本には日本の事情があるのだから、世界がどうあれ日本人が入れ墨を排撃するのは正しいのだ、という論法が日本のスタンダードである。
さて、ここで、私が昔から思ってきたことがある。
それは、アイヌ民族の入れ墨風習についてである。
言わずもがなのことだが、アイヌには入れ墨の風習があった。
若い娘が結婚したら、口の周りに「唇を大幅デフォルメしたような」形の入れ墨を入れる――
そんな風習下にあるアイヌ女性の写真を見たことがある人は、かなり多いだろう。
そして現在(いや、数十年前から)、アイヌの伝統や文化を保存継承しようという運動は盛んである。
最近は北海道は白老町に、民族共生象徴空間と題するウポポイという施設もできた。
だが、それにもかかわらず――
アイヌの伝統文化である「入れ墨」を復活させよう、見直そうという声は、私の知る限り誰も上げていない。
入れ墨は、アイヌ文化の核とまでは言わないまでも、非常に重要な部分ではあったはずである。
しかしその復活を唱える者は、アイヌ文化の継承に熱意を持って打ち込む人の中にさえ誰もいない。
これは、ニュージーランドの女性外務大臣(先住民出身)が率先して?顔に入れ墨を入れたのとは、ハッキリ対照的である。
どうしてこんなに、違うのだろうか。
「いや、それは、アイヌ人自身がそういう風習を捨てたのだから、問題ない」――
そうだろうか。
それは、日本人がそう仕向けたのではないか。止めさせたのではないか。
これはむろん、文化侵略であり文化剥奪である。
今のアイヌ人自身が「入れ墨なんて継承しない、したくない、そんな気はない」と心から思っているのだとしたら、それこそが文化侵略の完成でなくて何なのか。
そしてまた、その民族自身が捨てたのなら問題ないというのなら、どんな文化も消滅して問題ないということでもある。
だったら「アイヌの祭りなんてメンドクサイから参加しないよ。あんな格好して変な踊りしたくないし」というアイヌ人(の血を引く人)が多数になれば、そんな祭りは消滅しても構わないということだろう。
そして、これは非常にキツい言い方ではあるが――
結局のところ文化も伝統も、失われてしまえば誰もそれを惜しまない、というのがこの世の真実なのである。
日本人はチョンマゲの風習を失い、お歯黒の風習を捨てた。
今、誰もそれを惜しんではいない。
アイヌ人は日本人の文化侵略により入れ墨の風習を抑圧・根絶されたが、どんな理由だろうといったん失われれば、誰もその復活を目指そうなどと思わない。
アイヌ文化における入れ墨がそうなのなら、他のアイヌの風習だって同じである。
そして遠い未来には(そんなに遠くない?)、日本人の末裔が日本語を失い、英語や中国語を喋ち書く時代も来るかもしれない。
そうなったとき、誰も日本語の復活を願うことはないだろう。
ただ好事家や学者のみ、そんなものを研究しようとするだけだろう。
これが、伝統と文化というものの真実なのだ。
それにしても、私は思う。
かつて、結婚して口の周りに入れ墨を入れた娘の顔を見て、感涙したアイヌの父母は何万人に及んだろうかと。
そういう記憶も感動も、こうもはかなく消し去られるものだろうかと。
人生はむなしく、「大切な」文化も伝統も全てむなしい……
そういう真実を、日本とアイヌにおけるタトゥーの位置づけは、教えているのではなかろうか。