プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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大統領就任式に詩人を招くアメリカと、詩人をバカにする日本

 1月20日ジョー・バイデンアメリカ大統領就任式が行われた。

 それにはレディー・ガガジェニファー・ロペスという世界中の誰でも知ってるスーパーセレブ女性ミュージシャンの他、

 (私は全然知らないが)カントリーミュージックの超大物とされるガース・ブルックスが出演・歌唱するなど、

 メンツから見ればものすごく豪華な式典となった。

 そしてその中に、22歳の黒人女性詩人アマンダ・ゴーマンも登場して詩を朗読した。

 かのジョン・F・ケネディが始めた伝統らしいが、トランプはそれをしなかったのを、今回復活させた格好らしい。

(⇒ ニューズウィーク 2021年1月22日記事:バイデン大統領就任式で融和を訴えた22歳の黒人女性詩人アマンダ・ゴーマン)

 皆さんこれを聞いて、どう思われるだろうか。

 国の式典に詩人を招いて、詩を朗読してもらう……

 これは日本人にとって、理解を絶するようなあり得ない感性ではなかろうか。

 なぜなら日本人は、詩や詩人というものをバカにしているからである。

 その言い方がキツいというなら、「ちょっと笑ってしまうもの」と感じるようにできているからである。

 「私は詩人になりたい」というのは、

 「私はユーチュバーになりたい」というのより、

 さらに非現実的で浮世離れしたものだと思われている。

 「私は詩を書くのが趣味です、好きです」と言うことさえも憚られ、実際そういう人は絶無ではなかろうか。

 
 これは、日本と欧米の文化の違いでもかなり著しいものの一つである。

 ちょっと昔の欧米の小説なんかでは、

 「自宅で詩の朗読会を開く」

 とかいうシチュエーションがちょくちょく出てくる。

(今現在の欧米でもそういうことが行われているのかどうか、知らないが……)


 そしてこれもまた日本では、想像を絶する/考えられないことではある。

 いったい今の日本で詩の朗読会を開こうなんて、考える人がいるだろうか。

 そんなのに招かれるなんて、自主的に集まろうなんて、あなたは想像が付くだろうか。

 
 思えば昔は日本も、詩でこそないが和歌を詠み合う歌会は盛んに催されていたものである。

 連歌の会とかが、庶民階級(の、確かに上層ではあっても)でも行われていたものである。

 しかしそれは今、ほとんど全く跡を絶ってしまった。
 
 ところが欧米ではイギリスはおろか、「アメリカでさえも」全米青少年桂冠詩人というのがいるのである。

(アマンダ・ゴーマンが初代らしいが)


 私には日本の成人式なんかで、いや日本のどんな式典であっても――

 そこで詩人が詩を朗読するなんて光景が出現するとは思えない。

 みんな「は? 詩?」と感じ、バカにした気分で聞くに違いないと思う。

(それがわかっているから、最初から呼ばない。)


 日本でも室生犀星とか高村光太郎とか、教科書で必ず見るような有名詩人がいるにはいる。

 しかし詩というもの、明治・大正時代には盛り上がりを見せたかのように見えたものの……

 日本では結局、定着した文化にはならなかったようだ。

 特に太平洋戦争後、詩と詩人をバカにする風潮こそ逆に定着したかのようだ。

 人を「ポエマー」なんて言えば、それはもう「浮世離れしたことを言っている夢想家」を指す揶揄語・悪口としか受け止められない社会になった。

 日本で或ることを「ポエム」と言えば、それは「たわごと」の意味である。


 探偵小説とかはそういう道を辿らなかったのに、なぜだろうか。

 こういうところ、比較文化的に興味のあるところである。