しかし本記事の本題は、校則や多様性といったことではない。
本題とは、卒業式や成人式といった「式典」というものが、いかに現代日本人に重大視されているか、ということについてである。
今回の黒人系生徒は、わざわざ卒業式の日に初めて(卒業式にだけ)コーンロー髪型で出席しようとした。
これはもう、いかに気合が入っていたか、一念発起していたか、この日を特別視していたか、の明白なる表れである。
そしてネットの有識者・有名人らの(むろん、出席隔離した学校側への)批判も、
「卒業式という大事な大切な日にそんなことするなんて、残酷すぎる。可哀想すぎる。人権問題だ」
という趣旨が100%だと言ってよかろう。
もう、卒業式にせよ成人式にせよ、式典に出席すること・開催することは、疑いなき人権問題だと言わんばかりなのである。
いや、どうも現代日本人の意識の中では、「人生の節目」たる式典は「疑う余地のない大事なもの」と――
それにまともに出席できない・開催しないというのは、「大切な思い出づくりを壊す、とんでもない悪行」と、決めつけられているようなのだ。
ここで私は、つくづく不思議に思うのである……
私は小学校・中学校・高等学校の卒業式のことを、何も憶えていない。
かろうじて記憶があるのは大学の卒業式だが、それも覚えているシーンの合計時間数は、実際にかかった時間の100分の1ほどもないと思う。
そして成人式は、出席自体しなかった。
さて、思い出づくりと人は言うが、世の中の人はそんなに小・中・高の卒業式のことを憶えているのだろうか。
あなたはどうだろうか。
それは「大切で大事な思い出」だというのが世間の常識なのだから、こんなことは聞くまでもない愚問だろうか。
いや、だが、本当にそうか?
tairanaritoshi-2.hatenablog.com
なお、面白いのは、世間の人に「あなたは式典が好きですか? 出席するのが好きですか?」と聞けば、たぶん過半数は否定的な答えを返すだろうと予想できることである。
式典は重大事だと思っていながら、自分が式典好きだとは思われたくない――
これはある意味、「あなたは出世したいですか?」という質問と共通するところがある。
誰もほとんど肯定的な答えを返しはしないが、しかし内心では出世したいと思っているのだ。
(むろん、本当に心の底から出世したくない人はいるはずだが……)
それはともかく私には、世の中の人が本当に卒業式のことを「大事で大切な思い出」として憶えているとは、とても信じられないのである。
それに出席するとかしないとか、開かれたか開かれなかったとか――
そんなのがそんなに重大な心の糧となり傷となるとは、到底思えないのである。
はたして私は、人間の中でも特に冷たく、忘れっぽいのだろうか。
あなたや世の中の人は、そうでないのか。
式典というのは、人権カタログの一つに――「新しい人権」と呼ばれるものに――ラインナップされるのが妥当なものなのか。
もしそうだとしたら私には、現代日本人はまるで「儀式が命」の平安貴族みたいな心性になっているように感じられるのだが……