上野千鶴子氏と言えば、フェミニズムにほとんど興味のない人さえ聞き覚えがあるフェミニズムの古参闘士であり巨頭である。
その彼女へのルッキズムについてのインタビュー記事が、週刊ポストの最新号に載っている。
(⇒ Newsポストセブン 2021年12月25日記事:上野千鶴子氏に聞いた「美しい人に『美人』と言ってはいけない理由」)
男が女を美人と褒める・ブスとけなすのが悪いのは、
男が女を「一元的な序列のどこかにサッと位置づけ」る行為だからであり、
男というのはそうやって女をランキングする権力が自分にあると無邪気にかつ傲慢に信じている、しかしそんな権利は男にはない、
からだという。
そしてこのインタビューのハイライトは、何と言っても次の部分――
即ちインタビュアーが、
「じゃあ、女が男をイケメンと評するのも問題ではないか?」
という、誰でも思いつく伝統的な反問をしたときの、上野氏の答えである。
「よくある反論ですが(苦笑)、
女の場合は一元尺度でランクオーダーされるのに対して、男は多元尺度なんです。
たとえばイケメンじゃなくたって、学歴とか地位とか、そういった尺度が男にはある。
男の尺度の中で一番強力なのは金力(稼得力)であり、イケメンかどうかなんてことは、男にとってはマイナー尺度です。
つまり男女のランクオーダーは非対称ですから、『女だって同じことをやっているだろ』とはなりません」
私にはこれについて、「なんじゃそりゃ」「完全なダブルスタンダード」等々と反論・失笑する人たちの姿が見える。
いや、誰にだって見えるはずだ。
しかし私は、上野氏のこの認識は「正しい」と思うものである。
何が正しいかといって、「男は容姿だけが全てじゃないが、女は容姿がダメなら全てダメ」というその認識が、正確な現状把握を示していると思うのだ。
男の価値は容姿ではない、というのは正しい。
たとえば、いまや「現代のスティーブ・ジョブズ」みたいな天才有能ヒーローと評される、台湾のデジタル担当大臣のオードリー・タン氏。
あのタン氏の容姿を見てイケメンだと感じる人は、たぶんゼロだろう。
それどころか(こう言っては何だが)、まるで日本人のイメージする「キモオタ顔」の典型だとすら言えるのではないか。
(あなたは反射的に、そう思いませんでしたか?)
ところがどっこい、その有能ぶりなり天才ぶりなりが、(少なくとも日本では)容姿のことなど完全スルーさせている。
(あなたは、彼の容姿について言及した記事を読んだことがありますか?)
また、つい最近宇宙へ行った「お金配りおじさん」こと超大金持ちの前澤友作氏はどうか。
前澤沢氏の低身長ぶりは有名で、顔もイケメンとは言いがたいのはほとんどの人が共通して持つ印象だろう。
もし前澤氏が金持ちでもない庶民だったら、おそらく多くの女性は、その身長だけで彼を恋愛対象として除外していたと思われる。
もし「金持ちじゃない」前澤氏から告白されようものなら、「なんでアタシがこんなヤツに」と鼻白んで憤慨さえする女性は、大勢いたと思われる。
きっと前澤氏自身も、そんなことは簡単に想像できているはずである。
しかしもちろん「男の尺度の中で一番強力なのは金力(稼得力)」なのであるから、容姿をもってして彼をバカにする人は「それこそバカ」ということになる。
そして前澤氏もタン氏もその容姿が、天才なり才能なりの世の中における伸長を妨げることはなかった。
だが、これと反対に、確かに女性には「容姿がダメなら全てダメ」という宿命めいたものがある。
たとえ女性が天才だろうと金持ちだろうと、ただ一点、容姿さえ悪ければ、世の中の人は称賛する気や憧れを抱く気にならないものである。
その裏返しが、「どこを見ても美人と美少女ばかり」という現代社会の風景だろう。
テレビを見ても映画を見てもネットを見ても、街を歩いて広告を見ても、どこを見ても美人と美少女ばかりいる。
そこにはまるで、美人でない女性は存在することさえ許されないかのようだ。
言うまでもないが、アニメや漫画やラノベに出てくる女性は全員(多くの場合はモブキャラに至るまで)、美人か美少女で占められている。
これはもう、それらを一切見ることがない人にでも容易に想像できるだろう。
その理由は、「需要がない」という受け手側の事情だけでは決してない。
「そもそも描く気に、起用する気にならない」という供給側の事情の方が、むしろ大きいくらいかもしれない。
この現代、世の中における「美人」の価値はかつてないほど極大化した。
特に創作物の世界では、「美人以外の女性は存在しない、してはならない」状態にまで純化が進んだ。
このブログで何度も書いてきたように、現代社会は「美人資本主義」が地球を覆う時代にある。
(ただし、厳格イスラム圏を除く。)
そこで出てきたルッキズム(反ルッキズム運動・思想)というのは、資本主義に抗する共産主義みたいな位置づけになるのかもしれない。
そして社会制度・経済制度として共産主義が敗北したのは、しばしば「人間の本性に反する、本性を理解しない」無理した人工的な主義だったから、と言われている。
その点からすると、反ルッキズムもまた、美しいものを求め称賛するという人間の本性に反しているから敗北する、ということになりそうではある。
思うに反ルッキズムは、今は「女性を抑圧している」と見られがちな「女性が目だけ出して全身を覆う」厳格イスラム教世界と、親和性があるのではないか。
少なくとも、手を結ぶことはできるのではないか。
この世から――この世の男女の心からルッキズムを完全排除しようとすれば、女性があんな格好をするのは必然的な解決策である。
むろん上野流に言えば、男は全身を覆わなくてよい。
男のランクオーダーは多元的で、容姿はその一つに過ぎないのだから……