プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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大谷翔平記録記念ボール6億円超で落札…を貧困家庭は何と聞く?

 日本時間10月23日、大リーグ・ドジャース大谷翔平が「50ホームラン・50盗塁」を達成したときのホームランボールの入札が行われ、手数料1億円超を含め6億円超で落札された。

 しかし、落札者が誰かはわかっていないらしい。

(⇒ 日刊スポーツ 2024年10月23日記事:大谷翔平50号ボールがマグワイア70号超え 史上最高5億2200万円でホームランボール落札)


 さて、日本のテレビニュース界は政治・経済・大谷翔平とも思えるほど、大谷翔平はもはや一つのニュースジャンルになっているようだ。

 あまりの大谷大谷ぶりに、いくら何でも大谷翔平ばかり報じすぎるという「大谷ハラスメント」なる言葉もできるくらい――

 しかし今回のこの記事は、大谷ハラスメントとも大谷嫌いとも何の関係もないことはまず断っておく。

 私は大リーグにも大谷翔平にも何の興味もなく、そもそも地上波テレビを見ないので、ハラスメントと感じることもないのである。

 
 また、別に大谷翔平に限った話でも全然ないのだが……

 この手の「ボール1個に6億円超の値が付く」とか「スポーツ選手の年俸が何百億円」とかいうニュースを聞くたびに、私は思わずにいられないのだ。

 いや、あなただって誰だって、思わずにいられないはずだ。

 いったいこういうニュースを、世の貧困家庭や低所得で苦しんでいる人たちは、どういう思いで聞いているのだろうかと――

 実際、そういう感想を抱かないことはそれこそ不可能だと言っても過言ではない。

 ネットを見ていて、「給食しかまともに食べるものがない」子どもらが日本にもたくさんいることを訴える広告バナーを、一度も見たことのない人はいないだろう。

 そして一括して「生活苦」「低賃金」というワードでまとめられる記事は毎日毎日星の数ほど無数にあり、その一切を目にしないなんてあるわけがない。

 ましてや記事で見るだけでなく、自分自身が生活苦で低賃金だと感じている人はどれだけ多くいることだろうか。

 そんな中で、ボール1個が何億円とかスポーツ選手の年俸が数百億円とかいうニュースである。

 貧困家庭や貧困者、自分自身がそれに属すると自認している人たちが、いったいどのようにそんなニュースを聞いているのか、疑問に思わないことなんてできるだろうか。

 おそらくは、いったい世の中どうなってるのか、こんな世の中は間違っているといった声が充満していると予想するのが普通ではあるまいか。


 ところがどっこい、そんな意見はネットの書き込み欄にさえほとんど全く見られない。

 欠食児童や低賃金生活苦のニュースが無数にあるかと思えば、それとボール1個が6億円などというニュースが並行して報じられ、それらが完全に共存している。

 どうやら世の中の誰一人、こういう事態に憤りも矛盾も感じていないかのようだ。

 私にはこれは「ザ・格差社会」そのまんまの現れとしか見えないのだが――

 格差社会を問題視する(というスランスに立っている、と見られることを目指している)メディアも個人も、誰も一切そうは言わない。

 いや、そんなこと公然と疑問を立てようものなら、よってたかって叩かれて炎上するだろうとさえ確信できる。

 これはいったい、なぜなのだろうか。


 この疑問に対する一つの回答として考えられるのは、「それはそれ」「それとこれとは話が別」というものである。

 貧困や欠食児童はもちろん問題に決まっているが、それとボール1個が6億円というのは話が別だという「理屈」だ。

 しかしこういう論法ならば、世の中の何もかも「それはそれ」「それとこれとは話が別」で話が終わってしまいそうである。

 もう一つの回答は、一言に要約すれば「実力主義」ということになるだろう。

 ボール1個に6億円の値が付くことは、つまりそういう評価がされている(そういう評価をする人がいて、支払いができる)ということであり、それが現実世界におけるボールの評価なんだから、一方で欠食児童が何千人もいるからとて仕方ないことではないか、という理屈だ。

 しかし私は、ここでも思うのである――

 この実力主義という理屈なり理念なりというのは、要するに現状肯定主義・現状追認主義と同じ意味ではないのか、と。

 金持ちは実力があるから金持ちなのであり、従って金持ちを批判することは無意味であり反道徳ですらあるのであり、

 一方で貧困者が貧困であり低賃金者が低賃金であるのは要するに実力がないからなのだから、当然の結果で仕方ないことだと考える……

 これが現状の肯定であり追認であると考えないことが、どうしてできよう。

 
 それにしても世のメディアの一つくらいは、今回のようなニュースを聞いてどう思うのか、貧困家庭にインタビューやアンケートをしてもらいたいものである。

 いや、メディアは除くとしても、他ならぬあなた自身があなた自身の心へインタビューしてもらいたいものである。

 そこにはおそらく近代以前のように、「世の中には貴族の世界があって、庶民とはかけ離れた雲の上の世界がある」という、もう一つの現状肯定主義があるのではなかろうか……