10月19日午前5時43分頃、49歳の男が軽ワゴン車で自民党本部に乗り付け、警戒中の警察官に高圧洗浄機?で液体を噴射した上で、火炎瓶5本ほどの投擲を始めた。
これは党本部の門扉と敷地内の他、警視庁機動隊の車両バンパーを焼いた。
続いて5時52分頃、首相官邸前の防護柵にその車で突入し、警察官に発煙筒を投げた時点で現行犯で逮捕された。
死人はもちろん怪我人もなく、彼は今のところ黙秘している。
(⇒ 読売新聞 2024年10月19日記事:自民党本部に火炎瓶の男、反原発運動に熱心で最近はこもりがちに…父「政権に強い不満持っていた」)
(⇒ FNNプライムオンライン 2024年10月19日記事:犯行時“防護服”着用か…臼田敦伸容疑者(49)現行犯逮捕 自民党本部前で火炎瓶投げ首相官邸に車で突っ込む 警視庁公安部)
彼は年季の入った反体制・反政権・反自民の「闘士」であったようで、特に反原発活動には熱心だったという。
一方で――そういう人の通例であり、だからこそ熱心に活動できると言うべきか――定職には就いておらず、同居する父親は彼が車で出て行ったのも仕事を探しに出かけたのかと思ったらしい。
さて、この単独テロ事件、テロリズムとしての評価はほぼゼロ点と言わざるを得ないと思う。
単独テロが「最高の評価」を得られるのは、もちろんそれなりの重要人物を殺害したときである。
たとえ殺害はできなくても、とにかくそれを狙ってこそ「意味がある」。
それがあるからこそ社会は震撼するのであり、報道価値もまた大きく、それにより実行者の望む衝撃効果が得られるのだ。
実際のところ、いかなる単独テロ犯と言えども、標的たる特定人物への純然たる敵意・憎悪のみで単独テロをやるわけではなく、彼にとっても最大の目的は社会に衝撃を与えることなのに違いない。
ところが今回の事件は、「それなりの重要人物を殺害する」なんて目的が仮にあったとしても、とてもではないがそんなことが実現できる可能性があったとは思われない。
なるほど彼はそれなりの準備と装備をしており、軽ワゴン車には多くの火炎瓶、液体燃料入りポリタンク約20個、ガスボンベ・発煙筒も複数積み込んでおり、自身も防護服を着用していたという。
しかしこれは、特定の誰かを殺害するような装備とは言えない。
どこかの普通の会社敷地に対するならともかく、警戒厳重に決まっている自民党本部や首相官邸にこんな装備で突っ込んでいっても――
誰でもいいから(自民党の)政治家の誰かを殺すなんてとても覚束ないし、せいぜい「混乱を引き起こす」くらいであるのは目に見えている。
なるほど自民党本部前で「警察官に高圧洗浄機で液体を吹きかけた」というのはガソリンだったかもしれないし、もしその警察官へ火炎瓶を投げつけていたのなら(こういうことは報道されていないが……)、警備の警察官を殺害するつもりはあったのかもしれない。
しかし、警備の警察官を殺したって、こうした単独テロでは何の意味もない。
あくまで狙うのは政治家でなければならず、「反体制の闘士」の彼にはそういう必殺の覚悟が欠落していると思わざるを得ない。
そして何よりいただけないというか不可解なのは、逮捕された彼が黙秘しているということである。
もしかすると彼の目的は自民党政治家の殺害ではなく、警備の警察官も誰の殺害も望まず、ただ首相官邸への突入という行動により「自分の想いを表現したかった」だけなのかもしれない。
だがそれならそれで、逮捕されたら直ちに自分の想いを激烈にぶちまけなければならないのではないか。
もちろん警察はマスコミにその想いを流さないかもしれないが、しかしそうでないかもしれない。
それなのに自分の想いを黙秘してしまったら、これはもうせっかくテロを起こしたのにゼロ点評価されるしかない。
彼にも何らかの内心の事情はあるのだろうが、このままでは今回のテロには何の意味もなく、すぐ忘れられる運命にあると言わざるを得ないだろう。
ところで思うのは、これからは「非殺単独テロ」というのが流行るのではないかという予感である。
これは最初から誰も殺害するつもりはなく、しかしニュースバリューのある場所を狙って危険度のある騒ぎを起こして逮捕され、それを利用して自分の想いを社会へぶちまけるというタイプのテロのことだ。
これなら誰も殺さないのだから実行への心理的ハードルは低く、また量刑も軽くなることが期待され、さらには「人々の共感を得られる」「有名人になれる」「歴史(少なくとも犯罪史)に名を残せる」というメリットがあり――
ある種の心理状態・経済状態に達している人たちにとっては非常に手を付けやすい、いや大いに魅力さえあるタイプのテロだと思われる。
たとえば「氷河期世代の逆襲」をテーマにそんなテロを起こせば、あるいは彼は非殺の天下の英雄と目される可能性だってある。
今後のテロ対策には、そんな視点も必要になってくるのではないかと思うのである。