プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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りゅうちぇる自殺-「なりたい自分」分裂症

 7月12日、タレントのryuchell(りゅうちぇる。27歳)氏が、所属芸能事務所において自殺体で発見された。

 彼は女性にしか見えない「一児のパパ」として、最近とみに有名になった人である。

 私は正直この人について、たいして知りもしないし興味もなかった。

 しかしそれでも、名前と容貌は知っている。

 なぜなら最近ネットでは、やたらこの人についての記事が毎日のように表示されていたからである。

 そのせいでこの人の名前と容貌を毎日のように見ていたという人は、全国に何百万人もいるだろう。

 そしてそれらの記事は、この人の何について書かれていたかというと――

 これがまた、この人がSNSを更新したとか、新しい自撮りの写真や動画を投稿したとか、とにかくそんなのばかりであった。

 またその記事に必ず付けられていたのが、「一児のパパ」という文言である。

 それはもう、そうしなければならない決まりがあるのかと思うほど定型的であった。

 しかしそれにしても、そんなことを毎日記事にする価値があるのか、日々のニュースとして世の中に流す意味と熱意がどうしてあるのか……

 これは別にアンチりゅうちぇるでなくても、誰でも感じた疑問ではなかろうか。

 今回の自殺の原因として、この人に対する誹謗中傷(大量アンチコメント)が必ず挙げられるに決まっているが――

 そのさらに原因と言えば、いちいち毎回この人がSNSを更新するたびニュース記事にするなんていう、「過剰報道」「過剰拡散」があるのは間違いないと思わずにいられない。

 
 さて、りゅうちぇる氏について(たいして興味のなかった)私が知っている限りのことを、箇条書きしてみる。

 

●男性ではあるが、学生時代には「自分は男が好き」だと自覚があった。

●しかし女性モデルの「ぺこ」と出会い、初めて女性を好きになった。そして交際・結婚した。

●ぺこ氏との間には男子ができた。これが「一児のパパ」の由来である。

●しかし、ペコ氏とは離婚した。しかしながら、ぺこ氏と男児との共同生活は継続した。
 これを本人は「離婚はしたけれど、これからは人生のパートナーとしてやっていく」と表現した。

●離婚以来、急激な速度で「女性化」した。それはなかなかの美貌であった。

 

 繰り返すが、私はこの人のことを、この程度しか知らない。
 
 それを前提に、つまり上記の箇条書き程度のことを見てストレートに思いつくのは、「分裂症」という言葉である。

 これはあまり使っていい言葉ではない――「精神分裂症」は現在の「統合失調症」という言葉に言い換えられた――ということになっているが、しかしやはり「なりたい自分」分裂症、という言葉が思い浮かぶのだ。

 つまりこの人は、

 男性として生まれたが女性になりたく、

 しかし女性と結ばれて父親にもなりたく、
 
 しかしやっぱり女性として生きたい。

 かつこれらのことを、こういう自分を、世の中に発信してもいきたい……

 という風に「なりたい自分」がいくつもあって、「なりたい自分」が分裂していたのではなかろうか。

 これはもし分裂症という言い方がダメなのなら、「なりたい自分統合失調症」とでも言うべきだろうか。


 言っておくが、これは断じて悪口でも批判でもない。

 こういう風に生まれる人は、いるのである。

 こういう風に「なりたい自分」の姿が多数ある人、まさにそのことに悩み苦しみを感じる人というのは、この人に限らず必ずや世の中に複数人いるのである。

 それはもう、どうしようもないことなのだ。

 そして、こう言ってしまうのは心苦しいが……

 こういう人が普通の人より何倍も自殺しやすいだろうことは、誰でも直感するのではあるまいか。

 ましてやこれに、有象無象の大量のアンチコメントが、毎日毎日大勢の人に見られている――自分自身は見なくても、大勢の他人に見られていることは絶対に意識しないはずがない――などと思えば、むしろ自殺しない方が異常なくらいかもしれない。

 そして世の中には、まだまだ多くの「なりたい自分」分裂症の人がいる。

 なりたい自分が多くあり過ぎて、人知れず悩み苦しんでいる人がいる。

 昔の世界なら、「男性でありながら女性になりたく、しかし女性と結婚して父親にもなり、しかしその後でまた女性になる」なんて選択肢は事実上なかっただろう。

 だから初めから「諦めもつき」「そんなことができるとは考えもせず」、悩み苦しむ段階には行かなかったかもしれない。

 しかし現代では、なまじ大っぴらにそういう選択肢を選び得る――

 月並みな言い方になるが、今回の悲劇は「選び得る選択肢が増えると、却って人は困り悩む」ということの表れではないかと思うのだ。