今年5月、神戸市内の児童館女性職員が、児童館に通う小学2年生の男児にポリウレタンバットで頭を殴られ、耳が(かなりの程度)聞こえなくなる傷害を受けた。
会見を開いた神戸市の説明によると、殴った動機は「公園で野球ができないことに不満があった」かららしい。
児童館はこの件を警察に通報しなかったが、被害女性が6月に警察へ被害届を提出したために警察から児童相談所に通告がなされたとのこと。
そしてバットで殴った児童は「事件の数日前にも別の児童に暴力を振るっていた」というから、栴檀は双葉より芳し――
若干小学2年生、7歳か8歳にして名うてのチンピラ児童のようだ。
もちろんこんな児童は、早いうちに誰かが殺すべきである。
凶悪な年寄りを今さら死刑にするより、こういう若い子どもを今のうちに殺しておく方が、社会にとって莫大な利益がある。
(しかしもちろん、そんなことにはならないのである。)
ところで救いがないのは、この女性が教育関係者の会に出席した際に被害届を出したことを「教育関係者に」非難され――
「児童が感情をむき出しにするのはむしろ良いこと」
「小学生をなぜそこまで追い詰めるのか」
などと逆に言われた、と記事にあることだ。
まったくバカというかデクノボウというか――しかし「同じ教育関係者」だからって、結局は他人なんてこんなものである。
自分のこととなるといざ知らず、他人のこととなれば人は簡単にヒョーロンカやコメンテーターと化す。
この件については、“何にでも口を出す”教育関係者の代表格である尾木ママこと尾木直樹氏のコメントを聞きたいものだ。
まさかとは思うが、「公園で野球を禁止することにも問題が……」とか言うのではないかと、若干期待すらしてしまうではないか。
しかしこのブログで何度も書いてきたことだが、これはやはり文字を大にして言わざるを得ない。
この時代、大勢の子どもと何十年も接していく教育者ほどリスクの高い職業も珍しい。
もう、教職を志すこと自体が世間の常識とズレているのではないか。
こういうニュースはしょっちゅう流れているのだが、教職志望者というのはニュースを読んでいないのだろうか――
と、思わざるを得ない時代になっていることを、である。
(⇒ 2016年3月15日記事:広島中3自殺事件雑感 その4 ~君、教師になりたもうことなかれ~)
(⇒ 2015年7月11日記事:やっぱり教師は地雷業――最悪の戦場に奇蹟はなく、教職は賤業化する)
(⇒ 2015年5月29日記事:なぜイジメ自殺は…その11 現代日本の七不思議の一つ――まだ、教師になりたがる人がいる!)
(⇒ 2016年11月1日記事:大川小学校津波訴訟の賠償判決と控訴-ポジショントークと「裁判ってそんなもの」)
児童館が即刻警察に通報しなかったのは、時代の文脈から考えて当然である。
もちろん児童館(市)は、チンピラ児童の親を刺激したくないのだ。
事なかれ主義と言われようと何と言われようと、とにかく事を荒立てたくない。
これは別に児童館など公共機関に限らず、日本のほとんど全ての組織に共通する「理念」のようなものだろう。
(こんな新聞記事を読んで“怒って”いる人だって、いざ自分の(組織の)ことになると、やっぱり通報を控える方に加担すると思う。)
そして教育関係者というのは――いや、世間一般も――、とにかく「児童の側」に立つのが道徳だという「理念」を持っているものだ。
これはつまり、いざ自分が児童から被害を受ければ、周りの“仲間”からさえ大した支援は期待できないことを意味する。
他人にしてみれば、被害を受けたこと自体が“不祥事”であり“ヘタを打った”ことに見える(見たい)のである。
こういう世の中で、教職志望者はどうすればよいか。
一番良いのは、始めから教職なんて目指さないことである。
教職というのが上記のようなリスクに満ち満ちた職業であり環境であることは、ニュースを見ていれば誰でもわかる。
確かに、悲惨な交通事故のニュースを日々見ているからと言って、車を運転するのを始めから目指さないというのは間違いかもしれない。
(全てのクルマ運転者・歩行者の中で、事故死するのはなるほどごくごくわずかである。
今回事件の女性職員のような目に遭うのも、全教育者の中でごくわずかしかいない。
たぶんこれが、教職志望者がいなくならない理由なのだろう。)
しかし車を運転しない/できない不便さは大きいが、職業選択から教職を外す不利益というのはそこまでではないはずだ。
何と言っても教職に就けば、これから退職まで何十年をこんなリスクに晒されながら過ごすわけである。
もしかしたら「まともにリスク管理意識のある人間は、教職を目指さない」というのは、すでに密かに実現しているのかもしれない。
これははなはだ言いにくいことではあるが、「水準以上の能力や学歴のある人は、大学教授や大手進学塾講師を除く教育者を、すでに目指さなくなっている」のかもしれない。
となると、教育者というものが世間から「その程度の人間が就く職業」と見なされるのは、これまた自然な流れである。
どうも日本の教育、特に公教育は、人材不足・志願者不足により崩壊していく運命にあるかのようだ。
しかしそれも、またやむなし。
こんな環境に教職志願者を送り出してリスクに晒しながら公教育を維持するよりも、個人個人の幸福の方が比較にならないほど大事だからである。
そもそも勉強することも学校に行くことも、「そうしたい人間が、勝手にどうにかしてやる」ものではないだろうか。
そんなことがしたくないのなら、やらせるのは本人と社会の無駄というものである。