2月26日放送のサンデーモーニングで、漫画家の松本零士 氏の死去についてのコーナーが設けられた。
ところがコメントを求められたコメンテーターたちは、ほとんどだれ一人として松本零士作品を読みもせず知りもせず――さすがに名前と「宇宙戦艦ヤマト」くらいは知っているようだったが――、それでも一人ずつコメントを語るという、なんともカオスというか放送事故みたいな展開になったらしい。
(⇒ 日刊スポーツ 2023年2月26日記事:サンモニ、松本零士さん追悼でコメンテーターほぼ総崩れ「見ても読んでもいない」にSNS困惑)
私はサンモニを見ていないし、松本零士作品もあまり読んでいるとは言えない。
しかし不思議なのは、サンモニにせよ他のニュース番組(の範疇としていいだろう)にせよ、事前の打ち合わせとかはしないのだろうかということである。
「今日は松本零士という人の追悼コーナーがあります」
というのは確かにたった数日前にコメンテーターたちに知らされるのだろうが、
ただそれだけ知らせてぶっつけ本番でコメントを喋らせるというのは、
いかにも無謀そのものと感じずにはいられない。
私がコメンテーターだったら、そんなこと聞かれても困っちゃうに決まっている。
だいたいコメントを求めた司会の関口宏(79歳)からして、銀河鉄道999を知っているかどうかも怪しいではないか……
一方コメンテーターの中には、真面目にも?「ザ・コクピット」を課金して予習してきた人もいるようだ。
だがそもそも、こういうことって一夜漬けで予習してコメントするものなのか?
私はこういうとき、つくづく思うのだが……
いったい日本のニュース番組でごく一般的な「大勢のコメンテータ―ひな壇配置制」というもの、世界の他の国では普通に行われているのだろうか。
これもまた日本お得意の、ガラパゴス文化の一つではないか。
別に松本零士に限った話ではないが――
このコメンテーターたちの全員が、サンモニで扱われる事件や事案の全部について知識・知見・一家言を持っているだなんて、当然あり得ないことである。
しかしそれでも、この人たちは何らかのコメントをするわけである。
(今回の「放送事故」を見る限り、事前の打ち合わせはせず即興でコメントを求められ、コメントを返しているようだ。)
何か意見を聞かれたらとにかく何かを喋るという「コメント芸人」みたいな仕事だというのはわかるが、そんな意見にどれだけの中身や価値があるのだろうか。
たいして知りもせず、あまつさえ興味もないことにコメントを求めそれに応じるというのは、バカバカしいと言うよりは言語道断のように思えるのだが、あなたはどうか。
私にはこんなこと、アメリカのケーブルテレビ・衛星テレビ番組ではいざ知らず……
ヨーロッパやアラブの地上波テレビで「全くの門外漢が大勢」居並んでコメントを求められ、それに門外漢たちがコメントを返しているなんてことはないと思うのだが、違うのだろうか。
しかし私がどう思おうと、確かに日本ではそれが普通になっている。
ということは日本人はそれが好きで、かつ求めているということになる。
これこそ海外から「ここがヘンだよ日本人」と言われておかしくないと思うが――
今回の松本零士追悼コーナーに限っては、確かに日本独自の?「大勢コメンテーター制」が、目を覆うような惨劇をもたらしたのは確かだと思うのである。