今、同性婚容認議論がアツい。
あの「同性愛者なんて見るのも嫌」との首相秘書官発言を契機に、岸田首相は急遽LGBT容認法案の検討を始めた。
まず言っておくと、私は同性婚を認めていいと考える者である。
それには憲法改正が必要だとか言う話もあるが――
なんて超絶解釈が日本憲法界の定説である(らしい)以上、そんなものは解釈で何とでもなることだ。
(余談だが、もし中国や韓国でこんなのが自国憲法解釈の定説になっているとしたら、さぞ日本人は嘲笑・爆笑・揶揄することしきりだろう。)
(⇒ 2022年6月18日記事:同性婚禁止が違憲だとすれば、近親婚と重婚の禁止も違憲ではないか?)
しかし私は、同性婚の容認に賛成はするが――
このことについて各界のいろんな人がしきりに発言しているように、
「同性婚を認めないのは人権意識が低い・ない」
「これは雰囲気や感情の問題ではなく、人権の問題」
「なぜ人が人を愛することを否定するのか」
「なぜ認められないのか、その方が不思議」
というような、まるで「同性婚に賛成・容認しない人は人にあらず」みたいなことまではとても思えない。
私が同性婚を法的に認めることに賛成するのは、誰が誰と愛し合おうと結婚しようと、基本的にどうでもよいからである。
そんなのは、私やあなたや他人の知ったことではないと思うからである。
だがそうでなく、非常に多くの人が現実に、同性婚を容認しない者は「悪」で「遅れた」「劣等人種」みたいな言い方をしている。
しかしこれ、どう考えても異文化・異宗教に対するヘイトではないか。
世界には、同性婚を決して容認しない文化・宗教・人々がまだまだ多い。
いや、単に多いというだけでなく、きっとずっと多数派である。
「同性婚を認めない人は人にあらず、人権をわかってない、自分には理解できない」
と言うことは、そういう文化・宗教・人々に対する明らかなヘイトスピーチではないか。
この人たちは、具体的にはインドネシアという国と国民に対し、「オマエらはどうしようもない遅れた連中だ」と言っているのと同じである。
いや逆に、そう言うべきであるはずなのに、なぜ言わないか。
(⇒ 2023年2月日記事:LGBTQと同性婚の容認は21世紀の脱亜入欧? 福沢諭吉は正しかった?)
世界中には同性婚を認めない、今後もまず認めなさそうな国が――悪の独裁者や支配者集団ではなく、国民自身がそんなものを嫌悪しているという理由で――ゴロゴロある。
そういう国や文化や宗教について、彼らは「あえて」言及しない。
だが実際には、そういう国や文化や宗教を遅れた劣ったものと思っているのは、どう言い逃れようと否定しようがないだろう。
もし言い逃れが可能だとすれば、それは彼らの考える「世界」とは「欧米だけ」だということである。
その他の世界は、世界のうちに入らないのだ。
これは日本だけでなく、「同性婚先進国」欧米の人たちにも聞いてみたいのであるが……
もし同性婚を認めないのが「許されない人権蹂躙」と考えるなら、インドネシアとかに同性愛者解放戦争とかを仕掛けなくていいのだろうか。
それは言い過ぎだとしても、経済制裁や国交断絶くらいの圧力はかけるべきではないか。
そしてまた、タリバン支配下に戻ったアフガニスタンの、同性愛者どころか女性たちはほったらかしなのか。
あの人たちは、解放しなくていいのか。
それは「文化」だから「宗教」だから「しょうがない」のか。
国民自身が支持する文化なのだから、しょうがないのか。
だったら日本の男尊女卑文化なんかも、文化だからいいではないか。
それとも同性愛者の権利も女性の権利も、戦争したり他国に圧力をかけるほどして守るもんじゃないということか。
私が個人的にメディアに――ユーチューバーでもいいが――やってほしい「簡単なこと」は、日本に数万人はいるイスラム教徒やキリスト教徒に、同性婚の容認や同性愛についてどう思うか、インタビューしてみることである。
たぶんほとんどの人は回答も取材も拒否すると思うのだが、やってみる価値はある。
しかしたぶんそんな「度胸」は、この国の企業メディアにも個人メディアにもないような気がする。
いずれにしても私は、「同性婚を認めずんば人にあらず」みたいなこと、とうてい言う気にならないのである。