1月29日にSNSへ投稿された「スシロー湯呑・寿司ぺろぺろ動画」は燎原の火のごとく世間に広まり、スシローの株価下落損失は170億円にも達したという。
「誰でも取れる」湯呑、全員の所へ流れてくる寿司という「回転寿司」業態自体が、一人の唾液で消滅する勢いである。
そして例によってというべきか、この犯人たる男子高校生の父親へのインタビューに、週刊誌ポストセブンが成功した。
(⇒ NEWSポストセブン 2023年2月3日記事:【独占】スシロー「湯呑みペロペロ」高校生の父親が涙の謝罪 「本人はものすごく反省しています」「動画撮影はしていない」)
私はこういう時いつも思うし、きっとみんなそう思っているはずなのだが――
つくづくこういう子を持った親というのは、気の毒である。
つくづくこの親たちは、ハズレくじを引いたものである。
こんなことをするのは親の躾(しつけ)が悪いからだ、親の責任だ、と言う人は多いが、しかしそんなこと言う人たちも知っているはずなのだ……
人間の性格と頭の程度は初めから決まっており、いくら躾しても矯正しようとしても、変わることはないのだということを。
あたかもロリコンはどうやってもロリコンであるように、性癖や性格を変えようとするのは無駄な試みであることが普通だということを。
昨今の世の中では「親ガチャ」という言葉が流行り、社会的大問題としても認知された。
子の人生は誰が親かで予めほとんど決まってしまい、それは子自身には変えようがない、というのがその趣旨である。
しかし、それなら逆に「子ガチャ」というものもあるだろうとは誰でも思いつくはずなのに、なぜかほとんど言及されることがない。
だが親ガチャと全く同様、どんな子が生まれてくるかも親自身にはどうにもコントロールできないことである。
そして実は、世間の人間の意識への影響の大きさで言えば、親ガチャよりも子ガチャの方が上なのではなかろうか。
これこそ、全然言われることがないのだが――
子ガチャという「子どもリスク」への懸念は、世の非婚化・少子化の大きな要因になっていると思うのである。
子どもがいると教育費がかかって莫大な経済的負担になるというのは、子どもリスクの中の「間接リスク」である。
これに対し、子どもの存在自体がリスクになる――要するにわが子が失敗作になるというのは、「直接リスク」と言えるだろう。
要するにハズレくじの子どもを持とうものなら、
「自分のせいじゃないのに自分が迷惑をかけられる、責任を取らされる、いらぬ面倒が増える」
というリスクが、間違いなくある。
そして世間の多くの人は、間違いなくこういうリスクをよく認識しているとは言えまいか。
いや、もっと進んで言えば……
まともな知性と感性を持つ人間なら、こういうリスクを意識せずにはいられないのではないか。
特に知性やプライドの高い人間なら、自分が失敗作の子どもを持つかもしれない、ハズレくじを引くかもしれないという懸念自体に耐えられないのではないかと思う。
よく「子育ては難しい」と言われる。
それは世の中の常識でもある。
そんなリスクを背負って――人生の大きなリソースを使って――難しい子育てを一生懸命したからとて、わが子がまっとうに育つという保証は何もない。
人間の性格や頭の程度は初めから決まっており、教育ではどうにもならないことがあるというのは、これもまた常識に近い。
それならそんなリスクを負うことなく、「初めからくじを引かなければ、ハズレくじを引くこともない」という現状維持指向に人が傾くのは、当然至極のことではあるまいか。
これが非婚化・少子化に一役買っていると思うのは、そんなに的外れなことではないだろう。
そして身も蓋もないことだが、こんな懸念について政治や社会ができることは何もない。
本当にみんな平等な「真の共産主義社会」になれば親ガチャ問題は解決できるかもしれないが、子ガチャ問題はたぶん解決不能である。
いや、生まれた子どもは全て国家が引き取って育てるということにでもなれば話は別だが、それは「真の共産主義社会」ができるよりまだ可能性が低いだろう。
わが子が失敗作になる恐れ、子にハズレくじを引く恐れという「子どもリスク」――
それは全然メディアの俎上に乗ることがないが、厳然と世の中に存在する巨大リスクだと思うのである。