例の「たった1軒の(しかし18年間に及ぶ)苦情で廃止」が決まった、長野市「青木島遊園地」――
この何でもない公園(しかも正式の公園ではない)は一躍全国区の有名スポットになってしまったが、その廃止に反対し存続を求める署名活動が、立ち上げられたという。
(⇒ 長野朝日放送 2022年12月22日記事:長野市「青木島遊園地」存続・再考求め署名活動へ)
私は、この署名文書(その左側に書いてある、署名の趣旨)を見てはいないのだが――
しかしどうやら、「周辺住民との対話」は呼び掛けても、肝心の「たった1軒の苦情世帯」との対話は予定していないようである。
そして、別にケチをつけるわけではないのだが――
この公園をどうやって存続させるか、
苦情1軒への防音措置をどうするのか、
借地であるこの公園の借地料はどうするのか、
その清掃はどうするのか、
などといった具体的な案は掲げられていないようだ。
まさかとは思うが、「そういうのは市に一任、市が考えるべきこと」ということなのだろうか。
しかし「まさか」ではなく、まさにそういうことこそが市のなすべき仕事だ、と思っている人も多そうな昨今の日本である。
ところで今回の件について、ネットのコメント欄でよく見かけたのは――
「なぜ市は騒音測定しなかったのか、測定値が基準値以下なら苦情を突っぱねるべきで、それをしなかったのは怠慢ではないか」
というような趣旨の書き込みである。
私としてはこういう意見は、想像力あるいは現実対応力の欠如だと思う。
いったいあなたは、この公園の騒音が基準値以下だと完全立証されたからと言って、この1軒からの苦情が止むなどと本気で思うだろうか。
長野市が基準値以下だというデータを示して説得に努めたら、相手は納得すると思うだろうか。
そう考えるのは、まさに頭がお花畑ということではないか。
この手のデータが役立つとしたら、むろん裁判になったときである。
そしてもちろん、長野市の方が「苦情の差止め」を求めて裁判に訴えるわけではない。
相手の方は、「データがどうだろうと、とにかく自分が我慢できない。それが現実」と言えばよい。
基準値以下だから我慢しろというのは人権無視ではないか、と言えばよい。
相手方は別に裁判に訴える必要はなく、だから苦情が止むことがないのはわかりきったことである。
これは、署名運動を始めた人たちだけについての話ではないが……
もし自分で代案が示せない、代替地も探さない、代案の費用負担もしない、
苦情1世帯と直接話すつもりも補償費を分担する気もないというのなら、やっぱりこの公園は廃止とするしかないだろう。
私としては、この苦情1世帯の移転先を探して移転費も負担することで、立ち退きを要請するくらいしか代案めいたものはないのだが……