スポーツは人の社会性を良い方に向上させない、という調査結果が紹介された。
(⇒ プレジデントオンライン 2022年12月20日記事:「スポーツは人格形成に必ず役立つ」はウソである…「アスリートほどルールを軽視する」という衝撃データ)
ハッキリ言うとこれらの調査結果とその結論は、「何を今さら」というような内容ではある。
スポーツをやったら好青年になるとかどうとかいうのが嘘八百のタワゴトであるのは、こんなことを言われるまでもなくみんな知ってること、のはずなのだ。
スポーツ界での、それもプロスポーツどころか少年少女の部活スポーツの世界でさえ、パワハラ・セクハラ・イジメ・暴力行為が蔓延していることを、知らない人などいはしない。
そんなのは日々のニュースを見ていれば、嫌でも誰でもわかっている。
監督とかの指導者が暴君権力を振るうとかいうばかりでなく、上級生が下級生を屈辱的に服従させるとかいう「伝統」は、珍しくも目新しいものでもない。
そういう旧軍の兵営みたいな部活、上下関係を重視する(笑)気色の悪い青少年たちは、今の日本にもゴロゴロ普通に存在する。
あなたもきっと、「むかしスポーツをやってて、あるいは今もスポーツが好きな人」が、いい人でも何でもないという実例を、身近で一人や二人は知っているはずである。
しかしここでは、スポーツは人格を向上させない、むしろ無関係であるか有害ですらある、ということは自明の理として――このブログでも何度か書いてきたことでもあるし――、別の面からスポーツの「有害性」に触れてみよう。
それは、スポーツというものが「格差社会化拡大への批判の、顕著な大例外」になっていることについてである。
(⇒ 2015年5月6日記事:スポーツバブルと反スポーツ思想、格差社会――スポーツは虚業じゃないのか?)
(⇒ 2018年7月21日記事:“フェアプレー日大”矢野通の「後方タックル」時事ネタ試合)
ちょうどこの時期、プロ野球などでは選手の契約更改が行われている。
そこでは前年比で何千万円の増とか、実に景気のいい話が飛び交っている。
1人のスポーツ選手が億単位の年俸を得るのは、別に珍しい話ではない。
そしてそういう話が、
「日本人の給料は30年間上がっていない」
「日本の子どもの6分の1は、相対的貧困にある」
「日本人労働者の約4割が年収300万以下」
「生理の貧困」
とか、そういうニュースと完全平行して報じられているのだ。
そして、格差社会の進展に警鐘を鳴らしたり反対している人はゴマンといるものの……
私の知る限り、スポーツ選手が高収入を得ていることを批判している人は一人も見たことがない。
これは、不思議なこととは言えないだろうか。
せめて共産主義者ぐらいからは、批判の声が上がっていいのではないか。
ところがどっこい、有象無象が書き込む(と言っては失礼だが)ネット記事へのコメント欄にすら、スポーツ選手の高収入への怨嗟の声は全くない。
いやむしろ、「この人はもっともらってもいい」という書き込みはしばしばある。
このようにスポーツというのは、格差社会批判の対象外というか聖域というか、アンタッチャブルなものになっている。
実業家(あるいは虚業家)・大会社役員らへの高収入批判はあっても、スポーツ選手のそれに文句を言う人はほぼ一人もいない。
つまりスポーツというのは、人民に(貧民に)格差社会を容認・肯定させるという、大きな一翼を担っているのではなかろうか。
もっとも、これが「有害」だというのには異論があるだろう。
それは実力なのだから何が悪い、という反射的な反論である。
しかしスポーツ選手の高収入が実力だと言うのなら、全ての高収入者の高収入だって実力のはずだ。
そしてもちろん低収入は、その人の実力の低さを示していることになる。
日本人の4割の人の実力は年収300万円程度のもので、つまりは実力貧民であるということだ。
イーロン・マスクに比べれば、あなたやそこらの小金持ちの実力や能力なんて、まさにゴミのごとしである。(笑)
で、あなたは、それを肯定するのだろうか……