プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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「マルハラ」は精神病ではないか、と誰も言わない優しい時代

 確か数年前から言われてきた、文末に句読点の「。」を付けると若者が「恐怖や威圧感を感じる」現象――

 これが最近になって、マルによるハラスメントという意味で「マルハラ」という名称を付けられた。

 また、これについては一度このブログでも記事を書いている。
 
(⇒ 産経新聞 2024年2月6日記事:文末の句点に恐怖心…若者が感じる「マルハラスメント」 SNS時代の対処法は)

(⇒ ABEMA TIMES 2024年2月2日記事:LINEで句点「。」は誤解を招く… “マルハラスメント”とは? 若者世代「冷たい、怒ってる、冷めてる、もう会話が終了という意図なのかなと」)

(⇒ 2023年10月1日記事:LINE構文論-「句読点×、長文×、顔文字△、記号〇、スタンプ◎」が正解?)


 さて、私が不思議に思うのは、この文末の「。」によって恐怖を感じるということについて「それは精神病ではないか?」と書く人が誰もいないことである。

 むろんネットのコメント欄にはこれに類することを書き込む人もいるが、オーサーとしての元記事に「マルハラを感じる人、精神病説」を書く人は誰もいないのだ。

 精神「病」と言っては言い過ぎなら、「症」と書く人すらいない。

 これは世の中によくある「●●過敏症」「●●恐怖症」の一種ではないか、という程度のことは一人くらいは書きそうであるのに――

 私など、この現象を知ったときイの一番に、これは「現代精神過敏症の一つ」じゃないかと感じたくらいであるのに……

 いや、もしも本当にこの「。」に恐怖を感じている若者がいるとすれば、それは立派な精神症の一つじゃないかと今でも思う。

 昔のヨーロッパには、「自分の体はガラス」だと信じて、転倒すること(自分が割れてしまうこと)を極度に恐れる神経症があったそうである。

 マルハラで恐怖を感じるというのは、その現代版みたいなものだろう。


 しかし察するにこれは、「恐怖」を感じているのでなくて「不快感」を感じている、の間違いではあるまいか。

 あるいは、「鼻白んでいる」の間違いではあるまいか。

 だがそれならそれで、若者は「。」を嫌っている・不快に思っている・鼻白んでいる――と書けばいいものを、どうして恐怖を感じているとか圧迫感を覚えているなどと書くのか、という別の不思議が生じてくる。

 何かこう、現代では、「誰々はこれを嫌っている」というのを「誰々はモヤモヤを感じている」と書き換えなければならない、という不文律でもあるのだろうか。


 これは小説の世界の話であるが、あの名探偵ポワロは「左右対称でないと気が済まない、物が斜めに置いてあるとまっすぐに置き直さないと気が済まない」性格で知られている。

 これは一般には、奇矯で「変わった」性格と捉えられている。

 もちろんこれは原作者アガサ・クリスティーが、ポワロに(読者にとって)印象的な性格を与えようとしてわざと与えた性格である。

 私には「。」に恐怖を感じるというのは、これと同じ奇矯で変わった「性癖」の一つ、または「神経症」の一つだと思える。

 いや私だけでなく、きっと何万人もの人が現にそう感じているはずだ。

 それなのに誰もそうは書かないのは、たぶん「それは神経症」と書くことが「許されない」「優しい」時代になったからに違いないだろう……