プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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LINE構文論-「句読点×、長文×、顔文字△、記号〇、スタンプ◎」が正解?

 いまや日本ではスマホ通信のメインストリームとなった、LINE。

 そこに入力する文章の構文論・文法論は、なかなか盛んである。

 特に有名なのが「オジサン構文」というもので、それがとにかく若者層からバカにされ忌み嫌われているらしいことを知らないオジサン・オバサンたちは数少ない。

 そしてこのたび、またまた俄かに複数の記事にされだしたのが、

 「。」「、」という句読点を付けると「怒っている」「無表情」だと思われる、という話である。

(⇒ プレジデントオンライン 2023年10月1日記事:LINEで「、」や「。」を使うと「怒っている」と思われる…オトナたちがまったく知らない若者世代のLINE常識)

(⇒ ABEMA TIMES 2023年9月28日記事:LINEの「。」は怒ってる!? 若新雄純「LINEで顔文字とスタンプを使うのはマナー」理論を徹底解説)


 こんな話を聞いた「。」「、」をLINEに入力している人は、十中八九「全くめんどくせ~」「何でそんなに若者に合わせなくちゃいかんのか」と思うはずだ。

 上記引用記事では、もはやLINEで顔文字・スタンプを使うのはマナーだ、すなわちそれが正しい文法だ、というところまで極論している。

 しかし待て、例の「オジサン構文」というのは、顔文字の多用こそその最大の特徴の一つだと言われていないか。

 顔文字を使うのがマナーかつ正文法だと言っていながら、しかし顔文字を使うのはオジサン構文だからダメだと言うなら、いったいどうすればいいのか。

 これを好意的に解釈するなら、「一つの文章に顔文字は一つだけ」にするということだろう。

 そして、もちろんと言うべきか、1回の送信で一つの文章しか送らないのが鉄則なのだろう。

 さらにもちろんというべきか、その文末に句読点は付けず、その代わりに顔文字を用いるということだろう。

 つまり、『問題ありません。』ではなく『問題ありません☻』みたいにするということだ。

 ここで『問題ありません』と文末に何も付けなかったなら、それはそれで「冷たい」みたいに思われてしまう。

 いや、しかし、一つの文章で全ての言いたいことが伝えられるわけではない――

 その場合は一つの文章をいくつも連投することになるのだが、その全部の文末に顔文字を付けるとするなら、それこそ顔文字の多用と言われる。

 そこで代替として、「!」「?」あるいは「…」というような“記号”を付けることが考えられる。

 もっとも、ほとんどの文末に「!」を付けると、今度は「無意味にテンションが高い」「無理にテンションの高さを作っている」とも思われるだろう。

 しかしおそらく、それでも句読点や「何も付けない」よりはマシなのである。

 そしておそらく若者の感覚としては、最善なのは文章でも文字でもなく、スタンプの使用なのだろう。


 さて、私は若者ではないが、実はこの「若者LINE文法・LINE常識」にかなり共感するところがある。

 文中の「、」はともかくとして文末が「。」だと、怒っているとは思わないにしても冷たく事務的だと感じる人は、オジサン・オバサンの中にも多いのではないか。

 「、」や「。」を入力するには、まさにわざわざその入力をしなければならないのだが――

 空白(スペース)にしときゃいいのになぜそうしないのか、と感じる人だって多いだろう。

 たぶん現時点での“正しい”LINE構文論というものをまとめると、

「句読点×、長文×、顔文字△、記号〇、スタンプ◎」

 といったところになるのではなかろうか。


 しかしそれでも、これだけは私が若者(本当に若者の大半がそうなのか知らないが……)と相容れないのは、「極短文の連投の方が“正しい”」という感性である。

 たとえば「それって明日じゃなかった?」という短文でさえ、「それって」「明日じゃ」「なかったけ?」とか3連投にする感性である。

 もうこれ、ウザくてメンドクサくてたまんねぇコミュニケーションではあるまいか。

 こんな送り方されたら、そのたびにいちいち受信音を鳴らされたら、不快どころか激怒したくなって当然ではないか。

 私は予言するが、こんな極短文の連投を今の若者世代が“正しい”と本当に思っているとするなら、いつか近いうち次の世代から「バカ」扱いされるだろう。

 なぜ一回で(一文で)全部言わない、と、それこそ上司が部下に対して叱りつける感覚で怒りを買うだろう。

 彼ら彼女らが「これだからあの世代は」と下の世代にバカにされるのは、目に見えている。

 そしてまた、そんなことを書いた記事がネットに載る日が来るのである。

 これが世の習い、因果は巡る、と言うべきか――