いま中国の若者の間で、「タンピン」が流行っているそうである。
タンピンとは「だらっと寝そべる」の意で、仕事せず寝そべって何も求めない、マンションや車も買わず、結婚もせず、消費もしないというライフスタイルのこと――
らしい。
(⇒ デイリー新潮 2021年6月22日記事:急速に「日本化」する中国の若者 「タンピン(だらっと寝そべる)」が流行語になる背景)
一方で韓国の若者は、「N放世代」と言われているらしい。
N個すなわち無数個のもの――就職、結婚、消費財の購入など――を放棄・諦めた世代のことだ。
これで日本人がたちどころに思い出すのは、「シラケ世代」という言葉だろう。
日本人なら誰でも聞いたことがあり、しかもそれは「今の若者」を指すのだと、何となく感じる言葉である。
しかし調べてみると何とこの言葉、1950年から64年に生まれた人たちを指すらしい。
若者と言っても大昔の若者、それどころか今の日本でトップを占めている年代の人たちである。
ここでまた思い出すのは、いつの時代も若者は「今どきの若い者は」と言われてきた、というあの話だろう。
そう、古代エジプトの遺跡から象形文字でそう書かれた文章が出てきた、とかいうあの話である。
これはきっと、人類が続く限り永遠に繰り返される世代論ではなかろうか。
そして我々が知らないだけで、こんな話はヨーロッパやアフリカの諸国でも、アマゾンの密林の部族の中でも、延々と続いてきた伝統ではないかと思われる。
しかし一方でまた思うのが、
「やっぱり日本・韓国・中国の北東アジア三国の国民は、似た者同士である」
ということだ。
近年の貧富の格差もその固定化も、この三国はけっこう似たような軌跡を描いていると言っても良いのではないか。
そしてそれへの国民の反応もまた、けっこう共通しているのではないか。
なるほど今の日本のメディアは、日本の若者がシラケ世代だとは伝えない。
しかしメディアが採り上げる若き有名人以外の同世代の人たちは、タンピンやN放と似たような心持ちで日々を生きているのではないかと思われる。
だいたい「出世したい」と野望を表明するのが「悪」だという道徳は、この「金持ちスゴイ・金儲け自慢」記事がネットに氾濫する現代日本にあってさえ、一般世間に完全に定着しているのではないか。
「自分はビッグになりたい」と冗談以外で口にするなんて、もってのほかというのが普通の道徳観ではあるまいか。
そしてこれは、お互いが嫌い合っているということになっているこの三国について、「連帯」の希望を持たせることでもある。
中国のタンピンも韓国のN放も現代日本のシラケ世代も、同類であり仲間である。
彼らの敵は互いの国民ではなく、自国民の中の富裕層である――
と言った方が、はるかに正鵠を射ている気がする。
この三国の非富裕層の無力感・無気力観・達観が、いわば「無気力同盟」みたいなものになっていくか、それが新時代の革命運動になっていくのか……
プロレスで「無気力試合」というのがたいてい何かの前兆であることを思うと、興味を引かれるところである。