プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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女性アスリートの性的目的撮影禁止-イスラムは女性を性的視線から守っている

 3月22日、東京オリンピック組織委員会は――

 オリンピック会場の入場者に対し、選手らに対する「性的ハラスメント目的との疑念を生じさせる」写真や映像を記録・送信・作成することを禁止することを表明した。

(⇒ スポーツ報知 2021年3月22日記事:性的ハラスメント目的の撮影を禁止に 元アスリートの小谷実可子スポーツディレクター「私も不安を持って競技していた」)


 女性アスリートの「性的画像」撮影は、近頃ネットで頻繁に記事になっている話題である。

 そしておそらく圧倒的大多数の男性は、内心こう思っているものと思われる。

「そうは言っても、あんな格好の女性を性的に見るなという方が無理難題ではないか」

 と。

 実際、レオタードや水着は言うまでもないとして――

 女性のどんなスポーツウェアであっても、男性の性的本能をほんの少しでも刺激しないものはないのではないか。

 いや、スポーツウェアに限らず、「普通の」服装をしている女性にさえ性的妄想を抱くのは、これはもう男性の宿命ではなかろうか。

 これもまた言うまでもないことだが、「女子学生の制服」というのは、日本における性的シンボルの代表格である。

 ありていに言えば、最も代表的かつ一般的なズリネタである。

 これを否定する男性というのは、よほどの嘘つきに違いないのだ。

 女性はバカにするに違いないが、それが男というものである。

 男性は女性の姿に、ほとんど不可避的に性的妄想を抱くものである。

 すなわち女性は、(特にあんなスポーツウェアを着る女性は)男性から性的に見られることから逃れられない。

 
 さてしかしここに、女性が男性から性的な目で見られないことに成功している社会がある(と思われる)。

 またまた言うまでもないが、それは(いささかでも厳格な)イスラム社会のことだ。
 
 イスラム社会の女性がブルカだの何だの、「目」と「手の先」しか露出しない服で全身を覆っているのは、知らない人がいないほど有名である。

 そして日本人は一般的にそれを、女性抑圧の象徴として捉えている。

 だが見方を変えればそれは、女性を男性の性的視線から守っているということでもある。

 もっとも男性の性欲は抑止されることを知らないので――

 まさにその露わになっている目や手先こそ、性的視線の対象になっているというのはありそうなことだ。

 しかしそれでも、イスラム圏外の社会のように、女性が剥き出しの性的視線・性的評価に晒されているということはない。


 ハッキリ言ってこれは、イスラムの「先進性」や「正しさ」を示すものではないだろうか。

 私がイスラムの宣教師だったら(イスラムに宣教師はいないが)、この点を相当強調して先進国に売り込むところである。

 イスラムが女性を抑圧しているなんて誤解だ、

 逆にイスラムは女性を性的視線から守っている、

 男性の妻や姉妹や母親を、他の男の性的視線から守っている、

 イスラムでない社会と違い、彼女らを男どもの剥き出しの性的視線に晒すことなどしない――

 と。

 この理屈は、現代の西欧や日本の女性にも、けっこうアピールするところがあるのではないか。

 合理的であり、だから正しいということになるのではないか。
 

 日本にも、「わざと体の線を(特にお尻と脚の線を)クッキリ見せない、ダブダブ気味の服」を好んで着る女性はゴマンといる。

 私は女でないが、あれはたぶん、恥ずかしいからである。

 自分を性的視線から守りたいからである。

 そういう気持ちは、男性にも(男性だからこそ)わかるはずだ。

 この点に限っては、むしろ「イスラムの先進性」を否定できる人はあまりいないと思われる。

 そしてこの点を突破口に、世界のイスラム化が広まっていくことすらあり得ないことではないだろう。