プレジデントオンラインに、解剖学者の養老孟司 氏が記事を書いている。
現代日本人は子どもに価値を認めず、みんなさっさと大人になれ・なってほしいと思っている、という趣旨である。
さて、これを一言で要約するなら、「子育てはメンドクサい」ということになろうかと思う。
日本で「子育て罰」というのは「子どもが生まれたらいろんな意味で経済的に苦しくなる」ことを指しているが……
そもそも経済的に苦しくなくても、子育てというのは(考えるだに)メンドクサいものである。
そんなことはやってられないと考える人が多いのは、何も奇異なことではない。
そんなのは(やはり、いろんな意味で)余裕のある人のやることだというのは、世間の一般認識にもなっていることだろう。
だが私は、思うのである。
子育てなどということ以前に、もはや子作り――つまりセックス自体がメンドクサいという価値観がスタンダードになりつつあるのではないか、と。
いや、メンドクサいどころか「おぞましい」ものと感じられているのではないか、と。
これは私が、子どもの頃からずっと思ってきたことなのだが……
あなたが男性だとして、問うてみる。
あなたは、自分の体に他人の体の一部を入れられるということについて、どう思うか。
自分の体に何かを入れられるということについて、どう感じるか。
私は、絶対に嫌である。絶対に拒否である。
そんなことを受け入れるのは、病気の治療でやむを得ないときだけだ。
どうだろう、ほとんど全ての男性がこれと同じ感覚・感想だと思うのは、間違っているだろうか。
そしてそれならば、女性もまた同じように思っているというのは、自然な連想ではないか。
私は(昨今の社会的雰囲気には逆行するが)、男女には明らかに性差があると思う。
男女の間には、明らかに気質や感性や考え方に違いがあると思う。
しかし、「自分の体に何かを入れられる」ということについてどう感じるかなんてことにまで、そんな正反対の天地の差があるものかどうか……
これが昔から疑問なのである。
むろん、今までに生きた女性の大半が、自分の体に他人の体を入れられるのを(生涯に何十回・何百回も)受け入れてきたという厳然たる事実はある。
しかしここで男性ならば、「アンタよくそんなことOKしますね」という問いが、口元まで出かからないだろうか。
男性のあなたはいったい、そんなこと受け入れる自分を想像できますか? 想像したいですか?
私には女性の世界や女性の意識のことは、見当もつかないと言って過言ではない。
しかしこの「自分の体に何かを入れられる」ということについて、
生理的・根本的に嫌悪・拒絶・おぞましさを感じるというのは、
さすがに男女に違いはないのじゃないかと思わずにいられない。
そして現に女性の世界でも、そういう意識は広まってきているのではなかろうか。
セックスなんておぞましいことはしたくない、それは人間の身体への侵害に当たる――
と思うことは、そんなに不自然なことだろうか。
むしろそれは現代では、まともな感性ということにならないか。
また男性の側にも、こういう感性は広まっているように思う。
たとえて言えば、「あなたは他人の体に注射したいか、注射できるか」ということである。
もちろんこれは看護師さんが日常的に日に何回もやっていることではあるが……
しかしかなり多くの男性が、他人の体に針を刺して注射するなんて、恐ろしくてとてもできないと拒絶反応を示すのではないかと思う。
それと同じで、男性もまたセックスなんて恐ろしくもおぞましい、だからしたくないというのは「自然な感情」ということにならないだろうか。
つくづく思うに、男性の大半は「自分の体に他人の体を入れられる」なんて、想像を超えるおぞましいこと・恐ろしいことと感じるはずである。
だったら、同じように感じてセックスを拒否する女性にこそ、その共感は向けられるのが道理である。
そしてこういうセックス嫌悪・セックス忌避の男女の数は、我々の想像以上に増えているのではなかろうか。
それは(特に)男性にとって、実にもっともなことだと思えてしかるべきだ。
むしろ昔の人たちは、よくセックスなんて「おぞましいこと」を当然の営みとして好き好んでやっていたのかと疑問に思う……
それが現代日本では「まともな感性の人間」であるとしても、全然不自然ではないと思うのである。