1月20日、ナチス・ドイツがユダヤ人絶滅を決めたヴァンゼー会議(1942年1月20日)を描いた『ヒトラーのための虐殺会議』が日本公開される。
それに合わせたというわけではないが、私が昔からナチス・ドイツについて疑問に思っていたことが一つある。
それは、ナチスの超有名大幹部の一人であるゲッベルスが「宣伝大臣」と呼ばれ、彼の率いる役所が「宣伝省」と呼ばれていることである。
一般に日本人が「宣伝」と聞けば、何か商売的でどこか下世話な響きを感じる。
そんな「宣伝」という言葉を、大臣や省の名前に堂々と付けてしまう。
こんなことをした国は、ナチス・ドイツだけである。
なんとまあ、ナチスとは異質で異常な政権だったことか――
という風にあなたは感じないだろうか。
そして、これこそが罠ではないか、と私などは思うのである。
「宣伝」という日本語には、下世話な響きがある。
売らんかなでメガホンでがなり立てているイメージがある。
つまり下品なイメージなのだが、なぜ日本ではゲッベルスが「宣伝大臣(宣伝相)」で「宣伝の天才」、その役所が「宣伝省」としか訳されないのか。
私の知る限り、ゲッベルスを「広報大臣」「広報の天才」と訳した日本の本はない。
それはおそらく、ナチスとゲッベルスを「下品なプロパガンディスト」と規定し、「下」に見て「異質」なものだとする意識の産物である。
それはきっと、現代日本人のこういう意識に繋がっている――
すなわちナチスは、「宣伝」なんて言葉を大臣や省の名前に使って平気な、いわば変人集団だったと。
今の自分たちとは異質な、つまり関係ない存在であると。
だが、ひとたび「宣伝」を「広報」と訳し直せばどうか。
現代日本の会社や団体が「広報部」「広報担当」を設けるのは普通である。
「広報の天才」という言葉こそあまり聞かないが、ウェブマーケティングや各種PRの世界において、似たような誉め言葉を冠せられる人というのはちょくちょくいる。
ゲッベルスが広報大臣で、ナチスが設けたのは広報省だったと訳すならば、ナチスと現代日本の距離はグッと縮まると思われないか。
ナチス社会が現代社会と全く異質で、ナチスがアブない連中の集う変人集団だったという理解にも、疑いが差してこないだろうか。
ゲッベルスが「宣伝」大臣だったと聞けば、宣伝なんて言葉を大臣名に冠する「奇抜な」連中は、自分たちとは関係ないと感じたとしても仕方ない。
現代とは全然違う世界が昔はあったのだ、と思うのも仕方ない。
だが、それが罠なのである。
ゲッベルスは広報大臣であり、彼が率いたのは広報省である――
そう訳すだけで、ナチスと現代日本はそんなに遠くかけ離れてはいないと思えるのではないか。
そして実際、ナチスが変人集団で当時のドイツ国民がそんな集団にイカれ酔わされていたというのも、誤りではないか。
別に日本に限らないが、現代社会はナチス社会からそんなに遠いわけではない。
ナチスがエキセントリックな悪役軍団、現代社会の対極にいるSFチックな連中だと見立てるのは、誤りである。
ナチスは現代社会の中に今も内在しているし、現に日本には「ヒトラーファン」「ナチスファン」が多いのは、皆さん周知のことではなかろうか。
(⇒ 2021年8月13日記事:メンタリストDaiGoのホンネ-「ナチスファン」は世の中に多い)