今、「若者の**離れ」というフレーズを見ない日はない。
若者は車の所有から離れ、恋愛から離れ、結婚から離れ、合コンからも離れ、まるでこの世の全てから遠ざかっていくような感じである。
そして、決まってその理由として挙げられるのが「コスパ」という言葉だ。
つまり若者にとって、この世のほとんどのものがコストパフォーマンスが悪いという風に受け取られているようなのだ。
そしてその一つとして、「スポーツ観戦」というものも槍玉に上がっている。
(⇒ マネーポストWEB 2022年8月15日記事:“スポーツ観戦離れ”する若者たちの本音「2時間見ていられない」「コスパが悪い」)
私は、この若者の意識に「共感」する。それはそうだろうと思う。
私は若者ではないし野球に全然興味がないわけでもないが、しかし昔からテレビの野球中継をほとんど見てこなかったのは、まさにこれが理由である。
2時間も3時間も、それも「(CMも含めて)無駄な時間が多くある」野球中継を、ずっと見ちゃいられないのだ。
昔はあらゆるテレビ局で野球中継をやっていたものだが、それが激減したのも無理はない。
いったい今まで野球中継を見ることでどれだけ日本人の時間が「無駄」になっていたことか、考えるだに恐ろしいことではないか。
今の時代に2~3時間の野球中継を昔みたいに大勢に見させようと思えば、よほど最初から最後まで魅力的な場面ばかりが展開する「ノンストップ・ドラマチック」コンテンツにならなければならないだろう。
しかし「真剣勝負」の競技の悲しさ、そんなコンテンツを「作る」ことはできないのだ。
と、ここで、プロレスファンが誰でも思うことがある。
この現代のスポーツ観戦コスパ論は、プロレスがもう100年くらい昔に通ってきた道ではないのかと。
と言うより、まさにこのコスパ論に対応するためにプロレスが誕生したのではないのかと。
プロレスが「作り物」であるというのは、その本当の真偽・程度は別として、現代日本人の共通認識である。
プロレスはわざと相手の技を受けている、
相手が技をかけやすいように「待っている」「体勢を作っている」、
予めどっちが勝つか決められている――
これらはまさに、プロレスを「ノンストップ・ドラマチック」即ち「見る人に損をさせないコスパのいい競技」にするためのものではなかったか。
プロの「レスリング」なのに飛び技だのドロップキックだのマスクマンだのが当たり前のように存在するのも、全て観客のコスパ感に対応するためではないか。
そう思うと今のプロスポーツ中継というのは、プロレスが100年も前に通った道を今頃になってようやく通ろうとしているように思えなくもない。
そしてプロレス以外のプロスポーツはたぶん、ホームランに代表される「ハイライトシーン」だけ、大谷翔平が活躍するシーンだけを効率よく視聴したいという、観客のコスパ意識に対応するよう進化していくのだろう。
その意味ではフィギュアスケートなんかは、手頃な時間で好きな選手の滑りだけを摂取できるので、大いに優位にあると思われる。
なお、付言すれば――
本当に若者たちがこんなにコスパ意識を持っているのなら、それにより節約された時間を何に使っているのか、というのは、社会学上の大問題のはずである。
普通に考えれば、今の若者はかつての大人たちよりはるかに時間を有効利用している……
つまり効率性と生産性は爆上がりしているはずであり、日本の将来はものすごく期待の持てるものになるはずだ。
だが実際は、コスパを追求して無駄なことを削ぎ落して節約された時間は、おそらくはYouTube動画の視聴などに費やされていると思われる。
そしてそういう時間は冷静に見て、かつての野球中継を見る時間と「無駄さ加減」は同程度だと思われる。
結局、一般的な人間の「無駄時間消費度」は、あたかも古代人と現代人で脳容量や知能程度が変わっていないのと同じく、古代からずっと変わらないのかもしれない。
何をもって「無駄」と言うのかはもちろん侃々諤々の議論にはなるが、
しかし若者が鋭いコスパ意識を持って、例えば映画を倍速視聴するからと言って、別に日本の生産性や日本人の優秀性がアップするなんてことは、期待しない方がいいようである。