プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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大坂なおみvsセリーナ・ウィリアムズの「テニスプロレス」-日本代表の快挙に沸くこと自体が国粋主義で純血主義?

 9月8日(日本では9日)に行われたテニスの全米オープン女子シングル決勝戦で――

 日本代表の大坂なおみ(20歳)が女王セリーナ・ウィリアムズ(36歳)を下して優勝、男女を通じて日本人初となる4大大会制覇のグランドスラムを達成したとのこと。

 これで日本(特に彼女の出身地の大阪)は、大盛り上がりらしい。

 
 私はテニスに興味がないので、ニュースでちらっと見ただけだが……

 どうやらこの試合、まるでプロレスかと見まがうような展開だったと受け取れる。

 セリーナは審判に指を突きつけて猛抗議し、

 あまつさえラケットを叩き折り、

 さらには試合中どころか表彰式でまで、大坂選手は観客の大ブーイングに包まれた。

(どうやら外国のテニスファンというのは、プロレスファンよりはるかに低品質のようである。)


 しかし最後はセリーナが「ブーイングは止めて」と場を収め、

 大坂選手は「こんな試合の終わり方ですみません。試合を見てくれてありがとう」と純朴に語って“観客を感銘させた”というのだから、

 これはもうどう見てもプロレスの世界である。

 いったいプロレスファンで、これを「まるでプロレスだ」と思わなかった人って、一人でもいるのだろうか。


 ところで大坂選手、確かに(よく言われる言葉だが)日本人離れした風貌をしている。

 それは彼女の父親がハイチ系アメリカ人だからで、いわゆるハーフだからである。(ウィキペディアで見た)

 これをもって大坂選手に「どう見ても日本人じゃない(だから日本代表の優勝とは言えない/思えない)」と言う人がおり、

 これに対して「そんな純血主義はいい加減止めろ」と言う人もいる。


 しかしこれ、ずっと前から思っていたことだが――

 大坂選手の快挙に沸く人のうち大部分は、たぶん今まで大坂なおみの名前なんて知らなかったろうし、別にテニスを前々から続けて見ているわけでもないだろう。

 それなのに「沸く」というのは、どういう神経なのだろうか。

 知りもしなかったし大して興味もないジャンルの人なのに、その快挙には「沸く」――

 この謎の精神構造には、2つの理由しか考えられないと思われる。

 一つは「付和雷同」、すなわち「マスコミが沸けと言うから(そう言わんばかりの報道をするから)沸く」というもの。

 もう一つは、「同じ日本人の快挙だから」というものである。
 
 もし前者が当たっているなら、世の中の人ってつくづくチョロいものである。

 いくらマスゴミなどと言われようと、これほど簡単に自分らの報道で世間の人が沸いてくれるなら、そりゃマスコミの人たちは「なんだかんだ言っても、オレらが世間を動かしてる」と思うのが当たり前だ。

 そしてもし後者が当たっているとしたら――

 ハーフだろうと何だろうと、とにかく日本の代表が快挙を成し遂げたということに「同じ日本人として嬉しい」と自然に感じるのなら、

 もうそれ自体が国粋主義でなくて何なのだろう。


 重複になるが、その人は自分が今まで知りもしなかったし、大して興味もないジャンルの人なのである。

 その人がただ日本人だというだけで、あるいは日本代表として出ているというだけで、嬉しくなったり共感したりするのである。

 国粋主義国家主義民族主義・排外思想の高まりに警戒感・反発心を持つ人ならば、これに警鐘を鳴らさなくてどうするのだろう、というのが正直な感想ではないか?


 プロレスファンが、中邑真輔カイリ・セイン宝城カイリ)やASUKA(華名)らがWWEでワールドワイドに活躍するのを見て嬉しく思うのは、彼らが日本にいるときから見ていたからである。馴染みがあるからである。

 それは、ごく自然な感情として納得できる。

 しかし今までほとんど見ず知らずの人なのに「日本人が快挙」を達成したから嬉しい、というのは、いったい自然な感情なのか。

 それを自然な感情と解する(べきとする)のが世の中の大勢のようではあるが、それはやっぱりおかしくないか。


 おそらく(少なくとも今の日本の)プロレスファンは、排外主義だの民族主義だのからは、あらゆるスポーツファンの中で最も遠い位置にいる。

 外国人レスラーが日本の団体のチャンピオンになったからって、それが本気で悔しいというファンはいないだろう。

 挑戦者が外国人だからって本気のブーイングを飛ばすようなバカは、本当に一人もいないだろう。

 プロレスファンは日本人レスラーも外国人レスラーも、確かに平等な目で見ている。

 「外国の悪い奴らを迎え撃つ」力道山時代からはガラリと変わったものだが――

 今のプロレスはこの点、あらゆるスポーツの中で最も進歩的である。


 思うに、オリンピックをはじめとするスポーツ大会は、いずれいいかげん「国別」で戦うことを止めるべきではないかと思う。

 それはプロレスや総合格闘技のように、団体ごとジムごとに代表を出すようにすべきである。


 国ごとに代表を出すというのは、ただそれだけで国粋主義国家主義民族主義を助長することになってしまう。

 対してそれを団体ごとにしてしまえば、いずれ人種差別などバカみたいに消滅させることができるだろう。

 そのことは、特にプロレスにおいて実証されているように思うのである。