ついに、小林麻央が亡くなった(6月22日夜)。享年34歳。
彼女については、先日のブログに記事を書いている。
もちろんネットには彼女への哀悼と、夫・海老蔵を気遣い心配する投稿が溢れている。
こういうとき「“ひたすら祈ります”と書き込む人は、本当にひたすら祈っているのだろうか」と思うのは、野暮な疑問なのだろう。
しかしふだん芸能人がちょっとツイートして反応があったら「感動の嵐」「共感の嵐」と見出しを付けているネットニュースは、今こそそういう見出しを付けるべきである。
なのにそうしないのは、やはりそういう書き方はアオリ文句で客寄せカンバンなのだと――今そんなことを書いたら不謹慎だと見なされると、自分でわかっているからだろう。
小林麻央死去の報を、どのテレビ番組もニュースサイトもトップで伝え、コーナーを中断してそうした番組もある。
また、号外を出した新聞社もある。(中国新聞など)
(ノーベル賞受賞者が死んでもこんなことにはならないだろう。)
一介のフリーアナウンサーがこんな扱いを受けるのは、いかに有名人とはいえ異例中の異例と言えよう。
6月23日14時30分から記者会見した夫・市川海老蔵は、子どもたちとともに妻の最期を看取ったと語った。
小林麻央は死の前日から喋ることもできなくなっていたが、海老蔵が前に座ったとき「本当にたまたま、本当に不思議なことに」(と海老蔵は言っている)、「愛して――」(最後の「る」が聞こえたか聞こえなかったかは海老蔵にもわからない)と言ってそのまま息絶えたそうである。
こんなドラマのようなことが、本当に世の中にはあるのだろう。
そして海老蔵は妻の最期を看取った後、劇場へ人前で芸をしに行った。それが終わって記者会見をした。
私は基本的に「世襲の歌舞伎役者」というのをあまりスゴイと思わないが、しかし全否定しようとも思わない。
愛する妻が死んだ直後に芸をするなんて、まさに凄絶・酷烈の一言に尽きる。
小林麻央の闘病と死は、国民的な感動リアルドラマとして完結した。
私はやがて彼女の生と死が、道徳の教科書に載るような予感さえする。
しかし、やはり思うのである――
小林麻央と一般のガン患者の差は、いったい何なのだろうと。
かたや才色兼備で歌舞伎界のスターと結婚し、大きな知名度を得て闘病生活をかくも大勢に感動・共感・応援され、かくも大勢に死を悼まれる。(号外まで出る。)
それに対して、同じ苦しみを味わいながら(時には親族もろくに見舞いに来ず)騒がれもせずひっそり死んでいく大勢のガン患者たち。
彼女の死は、政府要人さえコメントを出すという形で動かした。
しかし彼女ならざる一般人がたとえ10年闘病の果てに死んだからとて、未成年の子を残して死んだからとて、とてもこういうことにはならない。その人の身近な庶民さえ、小林麻央が亡くなるほどには心を動かされもしない。
才色兼備の「能力貴族」と「能力プロレタリア」の差は、かくのごとし――
(もっとも菅官房長官、最近お菓子の「カール」が販売終了になったことを聞かれ、「食べたことないです」なんて答えてもいるのだが……
お菓子のカールについて記者から質問が出るのだから、小林麻央の死について質問が出ないわけがないとも言える。)
何かこれは、大昔の天皇が大古墳に葬られた一方、同じ時代の庶民は粗末な墓に葬られたのと通じるところがある。
また、いつの時代も庶民とは、「姫と王子、貴族どうし・王族どうしの愛物語」に惹かれ支持してきたことも思い起こさせる。
おそらく古墳時代の庶民も、大古墳を「格差の象徴」と恨んで見ることはなかったろう。
たぶん彼らは、賛嘆や畏敬の念で仰ぎ見ていたのではないだろうか。
どうも現代の日本人は、格差を問題視したり批判したりするよりは、積極的に容認するようになっているようである。
以前、ビル・ゲイツら地球的な大金持ちについて書いたことがあるが――
今の日本人でここまでの巨大格差を批判する人は少数派で、それどころかそんな人間は「嫉妬する馬鹿者」と見なされ、むしろ礼賛したり手本にしたりする人の方がはるかに多そうである。