プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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ガールズバー25歳タワマン殺人事件-誰かと話す・飲む価値はゼロである

 5月8日未明、元ガールズバー経営者の女性25歳が、そのガールズバーの客だった男性51歳に自宅タワマン敷地内で待ち伏せされて刺殺された。
 
 全身を何十か所も刺されるという凄惨な死であった。

 この犯人は、25歳女性自身やその店を応援するため車やバイクを売って1,000万円以上を渡していた。

 また、700万円くらいを消費者金融から借りてもいた。

 以前にはこの女性へのストーカー容疑で警察に逮捕されており、その際に女性は「渡されたカネは店への前払い金だった」と言っていたようだ。

 私は寡聞にして「飲み屋へのツケ」は聞いたことがあるが、「飲み屋への前払い」とは聞いたことがない。

 その意味で、「カネを返せ」とストーカーのごとく付け回ることには確かに同情共感できる余地がある。

 しかも彼が売却した車というのはネット情報によれば、ちょっとやそっとじゃ手に入らないようなレアものであるというではないか。


 しかし、根本的に全く同情共感できないのは、そもそもガールズバーやそこの女性らにそれだけの大金をつぎ込むという心性についてである。

 私は、「女と酒を飲む、飲食を共にする、話をする」なんてことには、全く価値がないと思う。

 あったとしても、せいぜい1回5,000円くらいが限度だと思う。

 だってそんなもん、いったい後に何が残るのか。何も残らないではないか。

 もちろんこれは私が男だから「女と話をするのにカネを払う価値はない」と言うのであって、女であれば「男と話をするのにカネを払う価値はない」となるだろう。

 ガールズバーやキャバクラにせよホストクラブにせよ、誰かと酒を飲んで一緒に食って話をする――

 そんなことで得られるもの・残るものは何もない。

 着道楽や車道楽・フィギュア道楽などというのは、まだ形あるモノが残るのでマシである。

 しかしこの手の「誰かと飲み食い」道楽というのは、何一つ残るものがない。

 思い出が残ると言うかもしれないが、そんなもん後で一体どれだけ残っているというのか。

 だいたい不思議なのが、彼女らと何を話すことがあるのかということである。

 世の中には、たとえば「ウォーレン・バフェット氏と会食する権利」に何百万円の値が付いており、しかもそれを購入する人がいるという。

 しかしその人ら、バフェット氏と何を話そうというのだろう。

 そして、後に何が残るというのだろう。

 なるほど中には大感激して「忘れ得ぬ思い出」になる人もいるのかもしれないが――

 どうせそんな感激もすぐに薄れて曖昧な記憶になってしまうのは、請け合いというかわかりきったことではないか。

 私は、あのナポレオンと1時間話す権利が100万円で売られていたって、買おうとは思わない。

 彼と話すことなど別に何もないからである。

 ましてやどこかの飲み屋の赤の他人の女性と話すことなど、輪をかけて何もないではないか。
  
 しかし世の中には、そういうことに価値を見出す男女がゴマンといるらしい。

(もっとも、ガールズバーだのキャバクラだのホストクラブだのが隆盛している国というのは、日本くらいのものらしいが……)


 これこそバブル経済であり奇怪経済であり虚業であり、言ってみれば「需要者自身による価値のでっち上げ」だと思うのだが――

 しかし少なくとも日本では、かなり強固な長持ちする虚業でありでっち上げであり続けているというのは、比較文化論的に興味深いところだろう。

 いったい何が人を、「女と話す」なんて価値ゼロなことに――人によっては苦行なことに――何千万円もつぎ込ませるのか。

 これこそがよく言われる「心の闇」というものではないか、

 それも一握りの犯罪人種が持っているだけというのではなく、何万人もが抱えている闇ではないか……