プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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JR東京駅母の日広告「ずっと小児」6日で撤去-透明感の広告の時代

 JR東京駅の商業施設「グランスタ東京」が4月25日から掲示していた、キップを模した大型広告。

 それは母の日に合わせて「こどもに帰ろう」と題し、路線名は「Jr.親孝行線」と書かれ、本物のキップでは「子ども料金」とある個所に「ずっと小児」と書かれていた。

 ところが「違和感を感じる人もいた」ということで、この広告を出したグランスタ運営会社は5月1日には撤去したそうだ。

 もちろん、その違和感を覚えた人らがクレームを入れたということだろう。

(⇒ ねとらぼ 2024年5月9日記事:「ずっと小児」グランスタ東京の“母の日広告”に賛否……運営会社が撤去「違和感覚える方もいた」)

 私はこの広告への違和感の焦点は、「小児」の一言だと思う。

 もしこれがなければ、撤去には至らなかったろうと思う。

 なにせ「小児」で思いつく言葉と言えば「小児マヒ」とか「左翼小児病」とかであり、総じて良いイメージはない。

 例外は「小児科」くらいのものだが、もし人に対して「小児」なんて言葉を使えば、それは明らかに悪口と受け取られるだろう。

 これを「ずっと子ども」としておけば、「そうだよな、いつまで経っても母にとって子どもは子どもなんだよな」と思ってもらえた――スルーしてもらえた――ことだろう。


 だがそれはそれとして、重要なのは――

 「ずっと小児」と書かれた広告を見て、わざわざクレームの電話やメールを入れるとか、スマホで写真に撮ってSNSで拡散するという「作為」をする人が実在するということである。

 そういう人は一般的には「キモい」「変わり者」だと思うのだが、しかし現代社会にはそういう人が数百人から数千人は実在する。

 そして、そういう作為的アピールに待ってましたとばかりに飛びつくネットイナゴみたいな人が、さらにその数倍はいる。

 これが事実であり現代社会の生態環境であるとわかっているのだから、「小児」なんて言葉をウィットとかウケ狙いみたいな感覚でポッと使ってはならないのだ。

 

 思うに、現代日本の広告で求められるのは「透明感」である。

 無色透明で人畜無害、誰が見ても「付ける文句がなかなか思いつかない」タイプの広告である。

 それこそ「AI美人が露出度の少ない服装で笑顔を見せている」なんてのがベストではなかろうか。

 また、今の日本の広告で政治的メッセージを盛り込んでいいのは、LGBT擁護とかそういうベクトルのものくらいだろう。

 とにもかくにも、「こんな広告に文句をつけるのはよほどの異常者に違いない」と万人を納得させる広告こそが、今の社会環境では最高の広告と言えはしまいか。

(⇒ 2024年3月13日記事:キリン、成田“集団自決”悠輔氏の広告起用取下げの怪)


 幸いなことに、「透明感」というのは現代日本で最高級に近い誉め言葉である。

 そして実際に世の中には、文句もつけられず撤回・撤去もされていない広告の方がはるかに多い。

 つまり、透明感ある広告を作るのは決して難しいことではない。

 下手に「色気」を出しさえしなければ、ズブの素人だって――あなただって――そういう広告は作れるだろう。

 いや、下手にプロのクリエイターらに頼んでしまえば、その手の「色気」を出してしまうリスクははるかに高くなりもするだろう。

 そう考えると、真のプロ広告作成者に求められるのはデザイン能力とかではなく、その手の「色気を自己抑制する能力」「クライアントの要望する色気の混入を撥ねつける能力」ではないかと思わないでもない。

 これは表現の抑圧だとか才能を摘むことになるとか、確かに言われはするだろうが……

 しかしそんなこと言ったって、環境が環境なのだから仕方ないのではないか、それが環境への適応というものではないか、と思わざるを得ないのである。