3月6日、新たな地質年代の名称である「人新世」の採用を、国際地質科学連合(IUGS)小委員会が否決していたことが判明したと報じられた。
(⇒ 時事通信社 2024年3月6日記事:「人新世」提案を否決 人類の痕跡示す地質時代区分―国際学会)
このニュース、ややビックリした人が多かったのではないだろうか。
「え、今の時代はもう人新世って呼ぶようになったんじゃないの? まだ提案段階だったの?」
という風に……
中には会社のプレゼン資料なんかで「現代は人新世と呼ばれています」なんて、犠牲者だか自爆者だかわからないようなことを敢行してしまった人(企業)も多いのではないか。
しかしそれも、無理はない。
なにせここ数年、「人新世」という言葉を冠した書籍や記事がいくら出てきたかわからない。
現代を人新世と呼ぶことはもう決まったも同然――
ではなく、そう呼ぶようにもう正式に決まったのだと誤解する人がゴロゴロ出てきても、いったい誰が責められよう。
人新世という言葉は、それほど近年の流行語大賞にふさわしい言葉だった。
少なくとも「学術語流行語大賞」というものがあれば、間違いなく受賞作になっただろう。
そしてこれは別の言い方をすれば、「ヒットワード」とも呼べると思う。
人新世、新たなる地質年代、人類の活動がついに地球史上に明らかな痕跡を残し始めた――
いやあ、これは確かに使ってみたくなる言葉である。キャッチ―な言葉である。魅力ある言葉である。
だから私は、こういう言葉――まだ学術的に提案段階でしかない言葉――を本や記事のタイトルにしたりプレゼンに混ぜ込んだりする人のことを、軽率だとか尻馬に乗る輩だとかいう風にバカにする気にならない。
「今はもう人新世だぞ」と後輩・同僚に胸張って言うような人のことを、冷たい目で見ようとは思わない。
なぜならそれは、人情だからである。
こういう言葉をつい使いたくなるのが、凡俗の人間というものだと思うのである。
ヒットワードとはそういうもので、「ゲームチェンジャー」なんて言葉をやたら使いたくなるのも人間の心性のなせる業だろう。
(⇒ 2024年2月24日記事:ウクライナは敗戦するのか-「ゲームチェンジャー」の濫用について)
ただ思うのは、やっぱりそれは客観的に見て「踊らされている」ことになるのだろう、ということだ。
学者だろうとサラリーマン・ビジネスパーソンだろうと誰だろうと、とにかく「新しい」ことを言いたいものである。
「斬新な新説」を唱えたり「定説を覆す」ことをしたいものであり、世間からそう呼ばれることを望むものである。
そしてまたメディアも、そんな言葉を使って注目と売上げを伸ばしたいのが当然である。
(⇒ 2017年3月20日記事:「鎖国」と「聖徳太子」の復活-歴史学者の功名心について)
そういうヒットワードに世間は現に「踊らされている」し、つまりはそういう踊りの中に勇んで加わる人が世の中には多いということなのだが――
こういうのも、いわゆる「経済を回す」ことのうちに入るのだろうか……