先日の記事で書いたばかりだが――
日本屈指の「指名手配有名人」、桐島聡が1月29日に死亡した。
入院して自らの名を明かしたのが1月25日だから、それから丸4日の命だったことになる。享年70歳。
なんでも彼は数十年前から「内田洋(うちだ ひろし)」の名で、神奈川県内の工務店で働いていたという。
これはもう、普通の人間とほとんど変わらない長期勤続社員と言える。
それで海外にも行かずおよそ半世紀も(警視庁のお膝元のごく近くの)神奈川県で一つの工務店に勤め続けていたというのだから、これは何やら幕末頃の高野長英が大江戸の街中に潜伏していたことを思い起こさせるではないか。
いや、その潜伏期間は高野長英をはるかに上回るのだから、善悪は抜きにしてこれは一つのドラマである。
しかしやはり健康保険証どころか身分証明するものは何も持っておらず(取得できず)、約1年前から胃癌で通院していたものの、その病院でも自費・現金で済ませていたという。
さて、結果的には彼は「逃げ切った」も同然である。
また、いよいよ死期を悟ったその精度とタイミングも、結果的には抜群であった。
これは見事と言えば見事なのではあるが、しかしなぜ彼は、最後に自分の正体を明かしたのだろうか。
これについて彼は、「最期は本名で迎えたい」と語ったそうだ。
70年の生涯のうち、彼が桐島聡として過ごした年月はたった20年ばかり、
それよりはるかに長い人生を内田洋として過ごしてきたのに、やっぱり最期は「本当の自分」として迎えたいというのは、多くの人が――いやほとんどの人が――理解できる感情だろう。
しかしそれにしても、人生の7分の5を「本当じゃない自分」として――しかもそれを自覚して過ごすというのは、まさに滅多にない経験である。
そして、そんな長い年月を経ても、まだ本当の自分を忘れられないという一つの実例でもあると言える。
そういう人生を送ることがどんな体験であるものは、極めて測り知れないものがある。
多少不謹慎ではあるが、これこそ「映画化決定」と言いたくなるようなものだ。
ところでこれは、全くの推測に過ぎないのだが――
彼の心の中には、「無縁仏になりたくない」「内田洋という噓の名前で葬られたくない」という恐怖もなかっただろうか。
そしてまた、やっぱり「自分ここにあり」と叫びたい願望――つまり「生きた証を残したい」という切なる希望もなかったろうか。
彼の属した東アジア反日武装戦線は、もちろん極左である。
極左たるもの宗教はアヘンとして拒絶し、神も仏も、あの世なんかも全然信じないのが信条であるべき……
などと私などは思ってしまう。
また、どうせここまで逃げ切ったなら最後まで正体を隠し、真の意味でのパーフェクトゲームを達成して死ぬのがカッコいいんじゃないかとも思う。
しかしおそらく、彼はそこまで――半世紀が経っても――達観できなかったのだろう。
いや、そこまで達観できる人間というのは、もはや人間とは言えないかもしれない。
当たり前ではあるが、東アジア反日武装戦線の革命青年もまた、ただの人間であった。
そしてまた、思うのだが――
これで彼の正体が桐島聡であった確証が完全に取れたとして、その桐島聡の「遺族」というのには連絡とか遺体引き取りの要請とかがあるのだろうか。
世代は変わったとはいえ遺族がいないことはないと思うが、その人たちは遺体を引き取って墓を建てたりするのだろうか。
かなりの確率でそんなことはしない(つまり引き取り拒絶する)と思うが、だったら桐島聡は、やはり無縁仏としてどこかに骨が保管されるのだろうか。
まあ、自分の死後がそんなことになるだろうことくらいは、さすがに彼にもわかっていたに違いないのだが……