9月1日、東京都港区は、来年度の区立中学校3年生の全員(約760人)の修学旅行先を3泊5日でシンガポールにすることを発表した。
各生徒(の家庭)の負担額は従来どおり約7万円だが、区は1人当たり約50万円を支出するという。
まず思うのは、東京の港区でありながら、公立中学の中学3年生全員で760人しかいないのかという感想である。
私立中学生も多いのだろうが、東京でさえこんなもんなのか……
とはいえ、そうだからそうなのだろう。
次に思うのはもちろん、港区はずいぶん豪儀でカネがあるなぁということだ。
そしてまた、3泊5日のシンガポール団体旅行が1人当たり57万円というのは私の感覚ではひどく高いと思えるのだが、皆さんはどう思われるだろう。
しかし今回の記事の本題は、密接に関連する(はずの)次の2つの疑問である。
(1) こういうとき「費用対効果」の話はどうなるのか、出ないのか
(2) 今回の件に限らず、子ども時代の「体験格差」というのが重要視されているが、みんな子ども時代の記憶をそんなに持っているのか
まず(1)だが、今どき企業でも公共機関でも、「費用対効果」という言葉を口にしない人はいない。
何につけても何を提案しても「費用対効果」を問われないことはなく、どんなバカでもイの一番にこれを問わないということはない――と言っても過言ではないだろう。
では今回のシンガポール修学旅行の件は、どういう費用対効果があるだろう。
いや、どうやってそれを測定するのか。
答えはもちろん、「算出できない」ということになるだろう。
これはつまり、世の中には費用対効果で語れないことがある、それで通ってしまうことがある、ということである。
中学生に3泊5日のシンガポール旅行させることの費用対効果なんて、どだい計算のしようがない。
逆に言うと、費用対効果が示せなければそんなことするな、という論法では、金輪際シンガポール修学旅行なんてできないのだ。
いやシンガポール修学旅行だけでなく、世の中には同種のことが溢れている。
それでもやることが「いいこと」「有意義なこと」とされていることは無数にある。
世の費用対効果論者は、これについてどう思うだろうか。
次に(2)は、私見では(1)と密接に関連する。
これは根本的な話であり、以前の記事にも書いたことがあるが……
子ども時代の体験とか思い出作りとか習い事とか、それらの貧富の差による格差とかは、昨今たいへん重要視されている。
しかしながら皆さんは、そんなにも自分の子ども時代のことを憶えているのだろうか。
私など子ども時代のことはほとんど憶えておらず、修学旅行の記憶もゼロに等しいのであるが、これは果たして極端な例か、珍しいことか。
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子どものためにいろんな経験をさせてやりたい、たくさんの思い出を作ってやりたい……
というのは、それこそ愛すべき自然な親心というものである。
しかし当の子どもは長ずるに及びそんなことほとんど忘れてしまう、などと言われれば親は悲しむし、怒り心頭に発する人も多数に上るだろう。
だが、わが身を顧みればわかるように、残酷にも「子ども時代の記憶はそんなに残らない」というのは、大部分の人にとって真実ではなかろうか。
もしそうだとすると、むろんシンガポール修学旅行の費用対効果は、ほとんどゼロということになる。
世にいう「体験格差」というものも、心配するには及ばないこととなる。
私はこの「自分には子ども時代の記憶がどれだけあるか?」という自問は、教育・子育て・体験格差論などを語るとき、欠かせないことだと思う。
子ども時代の体験や思い出がどれだけ残り、それが今の自分にどれだけ影響を及ぼしているかを振り返るのは、これらを語るとき必須の要素だと思う。
そしてもし、そういう体験や思い出が「無形の財産」とか「数字では表せない効果があった」と思うなら……
それはやはり、費用対効果論を無視・放棄すべきときがある、ということを示しているのではないか。