プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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参院選2022は自民大勝・小党脚光-「有名人民主制」の時代

 7月10日に投開票の参議院選挙は、自民党が単独で議席過半数を獲得する「大勝」で終わった。

 これは安倍晋三・元首相の突然の暗殺死がなくても(弔い合戦という要素がなくても)、選挙戦前に予想されていたことではあった。

 しかしそれよりも注目を集めたのは、「小政党」と言うより「極小政党」の躍動ではなかったろうか。

 さすがに「ごぼうの党」の議席獲得は成らなかったが――

 NHK党と(急造政党とも言える)参政党、そして社民党は各1議席、れいわ新選組は2議席を獲得した。

 このうち社民党は、党首の福島瑞穂 氏1人の当選である。

 あの社民党が、いまや極小政党のインディー団体みたいになってしまったのには、まさに隔世の感がある。

 しかし社民党を除く3つのインディー政党は、その議席数とは不釣り合いな(無関係な)ほど強大なアピール力を持つに至った、と皆さんは思われないだろうか。

 特にこれは、NHK党に言えることだが――

 日本に限らずどこの国の選挙制度も政治論も、「政党とは、国政を担う与党になることを目指すもの」というのを前提に構築されているものである。

 つまり、与党になることを最初から目指さず、ほとんどワンイシューをもって議院の一角に居座り続けることを目的とする政党があることなど、想定されていないのだ。
 
 極小政党の全てがそういう存在を目指している、と言っては失礼かもしれないが――

 しかし現に極小政党はそういう存在になっており、逆説的ながらそれで知名度と支持を増やしている。

 NHK党の党首の立花孝志 氏など、あれだけ「バカにされて」「批判されて」いながら、その最大の成功例となりおおせているではないか。


 そして、いまさらの感想ではあるが――

 今回の選挙で特に目立ったのが、「知名度」ひいては「有名人」の威力である。

 その最も目立つ例が、(これまたNHK党の)あのガーシーが当選したことだ。

 この他にもれいわ新選組では芸人(たけし軍団)の水道橋博士が、日本維新の会では歌手の中条きよしが、自民党では元おニャン子クラブ生稲晃子や漫画家・赤松健らが当選している。

 タレント候補は決まって世間から叩かれたり揶揄されたりするものだが、しかし右を問わず左を問わず、あらゆる政党がタレント候補の擁立を止めないのも無理はない。

 現実に、タレント候補は(百戦百勝とはいかないが)議席獲得の役に立っているのである。
 
 その当選率は、知名度のない非有名人よりはるかに高いのである。(特に比例代表では)

 もし社民党がこうしたタレント候補を擁立できていれば、選挙結果はずっとマシなものになっていただろう。


 私はこうしたタレント有名人が国会議員になることに、必ずしも否定的ではない。

 国会議員そして国会とは、国民のあらゆる階層・職業などを反映するものであるべきだと思うからである。

 よって、現役の一介の漁師やAV女優、いわゆるIT土方と自称する人たちがなったっていいと思っている。

 「いや、それは……」と思うのは、国会議員というものをセンセイと呼ぶべき「偉い人」「身分が上の人」と考えているからに他ならない。

 そういう身分制が好きな人のみが、国会議員は「代表」以上の上級身分だなどと考えたいのだ。


 さてしかし、ではタレント候補の猛威が「国民のいろんな階層を反映する」ことに役立っているかと言えば、そうとは言えない。

 もちろん彼ら彼女らは、民主的投票で選ばれるという民主的正当性を持っているのだが――

 それは一言で言って、「有名人民主制」というものである。

 要するに無名の人は(あなたのような無名の人は)、有名人よりはるかに価値がない。

 どんなに職場や地域で頑張ろうと、テレビやネットで全国的に有名な人には絶対に勝てない。

 あなたが選挙に出ようものなら、「誰これ?」とバカにされたり脳内スルーされるのは必定である。

 しかも重要なことに、それは「事実を述べている」というだけでなく、

 「そうするのが当然の道徳、それが当然の世の中」と民衆自身が普通に思っている。

 これはやっぱり、社会の民主化ではなく階層分化に貢献していると言わざるを得ないのではないか。


 これからますます日本では、「有名人民主制」が加速していくものと思われる。

 有名人と無名人の差はますます開き、

 いずれ与党も野党もユーチューバーとか芸能人ばかり、
 
 閣僚もまた同じ、

 という光景が現れるのかもしれない。

 それは確かに「旧来の世襲政治家・派閥政治を打破した光景」ではあるにしても、

 今度はそれが「民主的に選ばれた有名人の貴族政」であり、「無名人の価値のなさ」を社会全体が肯定する時代の到来ではないか、という疑問が生じると思うのである。