いま全国の小学校で、クラスメイトや友人を「あだ名」や「呼び捨て」で呼ばず「さん付け」で呼びましょう、という指導が広がっているという。
(⇒ 読売新聞 2022年5月28日記事:「あだ名」「呼び捨て」は禁止、小学校で「さん付け」指導が広がる)
いま全国の小学校で、クラスメイトや友人を「あだ名」や「呼び捨て」で呼ばず「さん付け」で呼びましょう、という指導が広がっているという。
(⇒ 読売新聞 2022年5月28日記事:「あだ名」「呼び捨て」は禁止、小学校で「さん付け」指導が広がる)
なんでも、あだ名は身体的特徴やその人の「失敗」をからかって付けられることが多く、それがイジメに繋がるからだという。
思い当たるというか考えすぎだというか、これは確かに賛否の分かれそうな話だ。
しかしおそらくこれは、時代の流れというやつである。
小学生が(それも男子が)同級生をみんな「さん付け」で呼ぶというのは奇怪な世界に見えてしまうが、それが普通になればそれが世の中の常識になる。
もちろんこの低年齢での他人行儀ぶりは、昔より人間同士の親密さを薄めてしまうのかもしれない。
だがそれこそが、人間関係の希薄化こそが、時代の流れ――
思えばここ数十年、日本はずっと人間関係の希薄化の方向へ流れてきた。
今回のあだ名禁止令を批判する人も実のところ、昔のような濃密な人間関係にはもはや耐えられないのではないか。
子どもの頃から人間関係が薄くなり、「人は人」となり、誰とも親しくなくなり、よって徒党を組むこともない。その延長でイジメもなくなる。
これは理想社会とは言えなくても、次善の社会とは言えるかもしれない。
ところで、どうせならその勢いで廃止・禁止に至るべきなのは、一定の人のことを「先生」と呼ぶ慣習である。
学校の先生は良いとして、議員や医者や弁護士、さらには作家や漫画家まで「先生」と呼ぶのは、いったいなぜなのだろう。
たとえば欧米で「アガサ・クリスティー先生に励ましのお便りを!」なんて編集部が書くだろうか。
人を呼び捨てで呼ぶのが敬意を欠くというなら、この「先生」と呼ぶというのは敬意の押しつけ・強要ではないか?
そして実際、先生と呼ばなければ怒る人が実在するのである。
それも本人でなく、全然関係ないそこらの人が「敬意がない」とか怒ったりするのである。
これは日本人の魂、即ち「人には上下がある、あるべきだ」とする心性の、現代における最も広まった現れだと言っていいだろう。
あだ名も呼び捨ても禁止するなら、「先生」呼称も禁止すべき――
これが廃止されない限り、日本にはいつまでも「人間の上下」が残り続けているということだ。