プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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落選トランス「女」テロ予告逮捕事件-「性別を知りたい需要」は絶対ある

 4月の船橋市議会議員選挙に立候補して落選した無職「活動家」の人が、自分のツイッター

船橋駅サリンをバラまく」

「私は令和の麻原彰晃

「警察が動かないなら、警察は無価値な存在だと全国に発信する」

 と投稿し、あまつさえ「#地下鉄サリン事件」のハッシュタグを付けた。

 もちろん警察に逮捕されたのだが、メディアの報道ではおおむね「女を逮捕」と表記されている。

 ところがこの人、実は「トランス女性」――

 すなわち「体は男で、心は(そして見た目は)女」の人だったということで、メディアの報道姿勢が問われているらしい。

(⇒ ENCOUNT 2023年5月2日記事:「サリンばらまく」逮捕のトランス女性、「女性」報道が物議 問われる報道の在り方は)


 私としてはまず、昔から思っていたのだが――

 犯罪容疑者のことを必ず「男」「女」と呼び、それ以外のときは必ず「男性」「女性」と呼ぶのが違和感ありまくりである。

 まるでこれは、「男」「女」が蔑称で「男性」「女性」が敬称のようではないか。

 そして実際、現代日本人はもうそういう風に理解してしまっているのではないか。

 人との会話で「男」「女」「男の人」「女の人」「男の社員」「女の職員」などと言ってしまったら、怒り出す人は非常に多いのではないか。

 「放送禁止用語」もそうだが、これは(法律でもないのに)メディアが決めたことが国民に浸透して「常識」「道徳」になる顕著な例である。

 「男」「女」と言うことが犯罪者扱いを意味する、なんてのは、考えてみれば不思議で異常なことではあるまいか。

 いずれ演歌やラブソングの歌詞でも、かつて「男」「女」と言っていたのが「男性」「女性」と言わなければ許されなくなる……

 まるで、そんな勢いなのである。


 閑話が長くなったが、今回の「トランス女性」容疑者をメディアが「女」と報道することについて、上記引用記事の弁護士は

「そもそも、わざわざ犯罪者の性別を報道する理由があるのか。『容疑者』のような報じ方でいいのでは」

「『元男性の法的女性』のような報じ方もあると思う」

 とコメントしている。

 皆さんはこれについて、どう思われるか。

 ハッキリ言って皆さんは、その人間が男か女か、性別を知りたいのではないか。

 世の中には、世の中の圧倒的大多数の人間には、その人物の性別を知りたいという需要や好奇心が確実に(根深く)あるのではないか。

 別に、犯罪容疑者だけでなく――

「これを言っているのは男か女か」

「この本の著者は男か女か」

 世の中の人は、これらを本当に知りたがっていないのだろうか。全く気にもしないのだろうか。

 たとえ(誰が書こうとどうでもいいはずの)考古学の論文であっても、それでもなお書き手の性別はどっちだろうと考えるのが普通の人間であると、私は断言してよいと思う。

 だから、メディアがわざわざ犯罪容疑者や「いいことした人」の性別を報じるのには、理由がないどころではない。

 それには絶対に「知りたい需要」があるのだから、何が何でも性別を報じるのは当然である。

 もし報じるメディアと報じないメディアがあれば、後者の方は読者から間違いなく「役立たず」の烙印を押されるだろう。

 しかし確かにこの「必ず性別を報じる」という方針は、LGBTQ+の台頭によって揺らぎが出てきたとは言える。

 この弁護士は『元男性の法的女性』という報じ方もある、と言うが、こんな寿限無寿限無みたいな言い方が本当に普及するとは、本人もおそらく思っていないだろう。

 たぶん「苦肉の策」とは――「苦しまぎれの策」と言った方が正確だろうが――、こういうのを言うのである。


 私としては、単純?に「トランス男性」「トランス女性」の言い方でいいだろうと思う。

 よほどの高齢者はともかくとして、もう「トランス」という言葉が何を意味しているかくらいは、ほとんどの国民がニュアンス的に理解しているだろう。

 もちろん「正式」に性変更をしているのなら、変更後の性で呼ぶしかないと思われる。

 それとも犯罪容疑者については、「男」「女」の蔑称で呼ぶというメディアのしきたりに従い――

 「自称男性」「自称女性」とでも呼ぶようになるのだろうか。