高齢者なんかに賃貸住宅を貸したら、ものすごくめんどくさいことになる。
だから高齢者なんかに二度と貸さない――
そういう事例が多いことを、「賃貸トラブルの専門家・司法書士」の太田垣章子氏が書いている。
(⇒ ヤフーニュース 2021年7月8日記事:高齢者に貸すなら空室のほうがまし… 賃貸トラブルの現場に潜む日本の闇)
さて、この記事でのハイライトは、次の部分である。
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ここでもし地域の不動産会社と行政や地域包括支援センターなどが連携すれば、情報が共有され、町ぐるみで高齢者を見守ることができます。
(中略)
しかしこの誰も困らない、誰もが助かることについても『個人情報保護法から情報共有できない』のが現状なのです。
縦割り行政の、弊害以外の何ものでもありません。
今後生産年齢人口はどんどん減り、そして急速に高齢者の占める割合が増える中、各分野が連携せずして日本はどうやって対応していくことができるのでしょうか。
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私はこのうち「縦割り行政の弊害以外の何ものでもありません」の部分に、違和感を持つ。
ここは当然、「個人情報保護法の弊害以外の何ものでもありません」とあるべきではないか。
そしてここにこそ、「日本の闇」があるように思う。
つまり、こんな記事を書くような専門家の人でさえ――
「個人情報保護(法)には弊害がある」
と 言ったり書いたりすることができないという闇があるのではないか。
たぶんまともに働いている日本人のほとんどは、この個人情報保護というものに弊害があると思っているはずである。
現実に、仕事や生活に支障が出ていると感じたこともあるはずである。
しかし誰も公然とは、個人情報保護が悪だとか弊害だとかは言わない(言えない)。
「個人情報が大事」というのは、現代人の道徳であり当然の正義だからである。
それがちょっとでも弊害があるなんて言えば、とんでもない奴と見なされてしまうからである。
だから代わりに、誰でも悪口を言っていい「縦割り行政」という言葉で言い換えるしかないのだ。
そしてまた、「闇」の上塗りというか――
個人情報保護という道徳が(本心では)行き過ぎだ、と思っている人でさえ、
他人に対しては必ずや、個人情報保護「信者」みたいになるというのが普通なのだ。
自分の電話番号、知人の電話番号、これらを他人に教えることは、一種の勇気や罪悪感を要することである。
人は誰でも、そしてどこのどんな組織でも、「連携」や「情報共有」が大事だと言う。
それを自分たちは推進する、と公には言う。
ところがどっこい、それは――
不祥事が起こったら「今後は社員への研修を強化します」とコメントするのと同様、「とりあえずそう言ってみる」という類いのものでしかない。
連携するというのは情報交換をすることでしか成り立たないはずだが、
しかしその情報交換というもの自体が「悪」と世間は見るのである。
あなたやあなたの属する組織が他人の情報交換なんかして、それが「悪」だ「問題」だと非難攻撃されたとき、弁護を買って出る第三者など一人もいない。
それがわかっているのだから、個人情報保護という道徳を(非難される恐怖に基づき)頑なに守ろうとするのは、むしろ人として当然のことだ。
もちろん太田垣氏の示唆するとおり、情報共有がなされなかったばかりに孤独死する高齢者は、これから増える一方だろう。
だから「高齢者には貸したくない」という家主も、きっと減ることはないだろう。
だがそれは、別に縦割り行政のせいではない。
何のせいかと言えば、それは国民の共有する道徳のせいである。
と言うか、情報共有しない――情報共有なんかしちゃって非難されるのを恐れるゆえの――縦割り行政が存在するのは、まさに国民の道徳観に基づいている。
そしておそらく、情報共有がないばかりに孤独死する高齢者たちも――
自分のことが情報共有されたら、むしろ不快になるのではないか。
情報共有した人たちのことを批判し怒るのではないか。
闇というなら、これこそが日本の闇ではないかと思うのだが……