12月18日、郵便行政を所管する総務省は、郵便料金の上限を大幅に値上げする省令案を発表した。
このまま行くと、2024年の秋には大幅値上げが実現する。
定形郵便物25グラム以下の封書は84円から110円に、25グラム超50グラム以下の封書もまた94円から110円に(つまり50グラム以下の封書は料金統一)、
そしてハガキは63円から85円となる。(つまりハガキ1枚が、今の軽量封書より高くなる。)
(⇒ 毎日新聞 2023年12月18日記事:定形郵便、84円から110円に30年ぶり値上げへ 24年秋ごろ)
何でもかんでも物価が値上がりしてそれが当たり前に感じられる昨今にあっても、これは非常にインパクト及び影響の大きい値上げ、いやショッキングな値上げである。
確かに「年賀状離れ・年賀状じまい」を代表として、個人として郵便物を出すことは昔に比べれば激減している。
しかしいまだ、「職場」から出す郵便の量が多いままだという会社・団体は多いはずだ。
だからこの値上げ、むしろ「国民生活」よりは「ビジネス面・国民経済面」でかなりの波紋があるだろう。
(最も身近な例で言えば、来年度予算の要求・作成である。)
だが(私もすっかり忘れていたが)今回の値上げは、消費税率アップに伴うものを除けば、実に1994年以来30年ぶりの値上げだという。
30年間も据え置いたものを一気に取り返すのだと言えば、この大幅値上げもわからないことはない。
とはいえむろん、一般人にとってこれは「改悪」に他ならない。
そしてこの郵便の「改悪」は、特に近年急速な勢いで進んでいる。
働く人なら誰しも気づいているだろうが、最近の郵便が届くことの遅さは、ハッキリと感じられる。
ちょっと前なら翌日には着いていたものが、翌々日かその次の日にやっと着くというのがもはや普通である。
しかしそれよりもっとハッキリ感じるのが、今まで置かれていた郵便局のATMがどこもかしこもドシドシ撤去されていることだ。
これは高齢者のみならず一般人にも、相当に不便化しているのではなかろうか。
(そしてまた、郵便局以外の金融機関のATMもまた、完全撤去か台数大幅削減になっている。)
日本は人口減少により「縮小」していくと言われているが、この各種金融機関のATM・店舗の縮小廃止というのは、まさにその先行例と言えるだろう。
しかしこうなることは、かの「郵政民営化」が始まったときからわかりきっていたことでもある。
郵政民営化のとき、いや今現在に至っても、「公共的機関」について誰もが必ず口にする(又は思い浮かべる)のは「民間の経営感覚」という言葉である。
「民間の経営感覚ではあり得ない」という言葉は、公共的機関について述べるとき・批判するとき、誰でも易々と思い浮かんで口を衝いて出る言葉の筆頭である。
そして郵便の値上げも郵便ATMの急速廃止も、もちろんこの民間の経営感覚というものに基づいているのは言うまでもない。
民間の経営感覚からすれば、採算の取れない(しかし完全廃止・市場撤退まではできない)業務を、できるだけ統合・縮小するのは当然なのだ。
それをやらないのは、ひとえに民間の経営感覚の欠如なのだ。
かつて日本人は、圧倒的に郵政民営化を支持した。
当時の郵便局には、民間の経営感覚が(どうしようもなく)足りないと思った。
それが「改善」された結果が、郵便物の値上げでありATMの大幅減である。
むろんこれは、全国一律のユニバーサルサービス提供の終了にも繋がっていくことだろう。
採算の取れない事業や地域から撤退する、そうでなければ値上げするというのは、コンビニを引き合いに出すまでもなく民間の経営感覚のイロハのイとしか言いようがない。
そして次は――今すでに始まってはいるが――、鉄道・バスなどの公共交通機関の番である。
民間の経営感覚からすれば、不採算路線を廃止するのは当然である。
それが何らかの事情でできないのなら値上げするのが当たり前、やらなきゃバカというレベルである。
かつて近過去の日本人は、そういう道を良しと選んで支持していた。
もしそれが悪いと思い直すようであれば、むろん「再国有化」しか道はない。
(⇒ 2022年4月11日記事:JR西日本、大赤字ローカル線収支を初公表-「国鉄復活」の奇手)
しかしそれは、不採算な分野を維持するために不採算以外の分野の利用者が広く「穴埋め費用」を負担する、ということである。
これは「民間の経営感覚」道徳を持つ大多数の日本人にとって、反道徳的に感じられることだと思う。
今の(たぶん知的な方であろう)日本人にとって、不採算分野とは即ち「ゾンビ企業」のことだ。
それを生かしておくから日本は良くならないのだ、というのはもはや定説と言っていい。
その定説が覆されることがあるのかどうか、不採算ゾンビ企業のバックラッシュがあるのかどうか、これは注目である。