プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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「長文は罪」の時代-小室圭氏の全28枚反論文書公表

 4月8日、眞子様との結婚問題で揺れ続ける小室圭 氏が、ついに文書による反論を公表した。

 その全文は、次のとおり。

(⇒ 東京新聞 2021年4月8日記事)



 私はこの問題にそこまで興味があるわけではないので、精読はしていない。

 むしろ興味があるのは、これに対する国民の反応の方である。

 もはや小室氏については、「公認公許のイジメ対象」「正義の袋叩き」状態になっているのは周知のとおり。

 だから小室氏が何をやろうが何を書こうが、大多数の国民は「読みもせずに」ボロクソ言うに違いないことは誰にだって予想できた。

 そして案の定、ネット上の反応で多いのは

「こんな長文、誰が読むんだ」

「こんな長文を書くのは、グダグダ言い訳を並べてる証拠」

 みたいな書き込みである。

 
 別に、小室氏を弁護するわけではないが――

 このペーパー28枚に及ぶ長文ではなく、もっと短い文書であったとしても、どうせ小室氏は叩かれていたに違いない。

「こんなツイッターみたいな短文なんて、バカにしてる」

「原稿用紙5枚ぽっちの内容しか書けないのか。それでも弁護士になろうってのか」

 とか、速攻で書き込まれるに違いないのだ。

 もちろん記者会見なんかして「自分の言葉で語った」としても同様で――

 それはむしろ文書で語るより、はるかに危険極まる賭けである。

 だから文書でアピールするというのは、客観的に見て賢明なことだ。

(あなただって、たとえどんなに自分が正しくとも、会見では「どもる」「詰まる」「噛む」なんて状態になるのは自分でわかっているだろう。) 

 
 確かにこの文書には、一目見て欠点がある。それは

「もっと改行を多くできなかったのか」

「字間もちょっと読みにくい」(まるでガリ版印刷のようだ)

 というレイアウト上の欠点である。

 そしてもう一つ、まず「概要」を頭に持ってくるのはいいとして……

 しかし「注釈」を付ける(しかもかなり分量が多い)というのは、やはり大きな欠点だろうと思う。

 いかにも「法律書や学術論文を読みすぎた」、「それにモロに感化された」、「衒学的な雰囲気」を醸し出してしまっているではないか?

 (そして私はこの、「本文の後に付された注釈」というのが嫌いなのである。これこそ読む気にならないのである。

  いちいちページを行き来して読むのが面倒だから……

  本文と同じページに注釈があるなら、それは読むのだが。)


 だがそれはそれとして、問題は「長文であること自体を批判する」ということだろう。

 私は別に、長文であるからダメだとは全く思わない。

 これほど国民的な問題になった、事情もかなり入り組んでいるだろう話を短文で説明するというのは、それはできない相談に違いない。

 しかし現実に、多くの国民は、長文であること自体が気に食わないのだ。

 いや、この「長文は悪」というのは、いまやビジネス界でも「道徳・マナー」として完全に定着しているのではあるまいか。

 「長文を書く奴は無能」とまで、真剣に思われているのではあるまいか。

 しかしどうもこれ、戦後からずっと言われ続けてきた「国民の読解力の低下」「国語力の低下」の行き着いた先ではないかと思われる。

 多くの日本人はもう、「長文アレルギー」になっている。

 そのアレルギーはもはや「深刻な病」ではなく、「正しい道徳」に変化した。

 長文であるだけで読む気を失い、だから長文は悪なのだと感じることが正義となった。

 1年に1冊も本を読まない若者がとても大きな割合を占めているというのも、当然のことではあるまいか。

 そして長文を読めない(読む気にならない)ということは、長文を書けない(書く気にならない、というのは即ち能力的にも書けないということである)ということとイコールだろう。


 私はむしろ、(レイアウトはともかく)28枚も書いて公表した小室氏を、その点では評価するものである。

 少なくとも彼には、それだけの分量を書く材料と「言いたいこと、言えること」があったわけである。

 となると次は当然、彼の母親の元婚約者の長文の公表を待ちたいものだ。

 それを読み比べてみて初めて、両陣営の黒白が付く。

(いや、「黒白」という言葉も今では差別的か?)


 「長文は読む気にならない」と言っていたのでは、それこそ感情のまま誰かを叩くネット愚民と同じではないか?