プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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「経済大国最後の祭典」東京オリンピック中止は日本の希望かもしれない

 1月18日、通常国会の開会に当たり、菅首相は施政方針演説を読み上げた。

 そして案の定、今年の夏に(いまだ)延期開催予定である東京オリンピックパラリンピックについて――

 「人類が新型コロナに打ち勝った証し」として、

 「世界中に希望と勇気をお届けできる大会を実現するとの決意の下、準備を進める」と述べた。

 
 今この日本で、夏にオリンピックをやれると思っている人、

 と言うよりやるべきだと思っている人は、よほど奇人変人の部類に入ると言ってもいいだろう。

 なるほど半年後のことなど誰にもわからないし、

 もしかしたら(ワクチンが効いて?)その頃には、

 コロナウイルスなど誰も話題にしない過去の出来事になっている可能性も確かにある。

 しかしやはり、たとえそうだとしても外国から大勢の観光客を呼んでくるべきだなんて思う人は、やっぱり奇人変人なのではあるまいか。

 私は決して、菅首相が奇人変人だとは思わない。

 しかし結果的に、奇人変人みたいなことを言っている。

 オリンピックが「人類が新型コロナに打ち勝った証」だというのは、そうした奇人変人たちの常套句だと言っていいだろう。

 多少ともまともな人間は皆、「今はオリンピックどころじゃない」と思っているはずである。

 それなのに菅首相がこんなことを言っている――言わざるを得ない――というのは、「オリンピック真理教」の末路を象徴するかのような光景だ。

  
 このブログでも、もう何度も書いてきたのだが……

 もしこの新型コロナが神の遣わした罰だとするならば、それは経済の神の罰だろう。

 何についての罰かと言えば、オリンピック真理教という邪教に対する罰である。

 我々は、特に日本人は、

 「オリンピックがあるからマンションを建てる、インフラを造る」

 などという話を、ごく普通に聞かされてきた。

 一流の経済誌も、どのメディアもどの経済論者も、そういうことを当たり前のように書いてきた。

 オリンピックのもたらす経済効果が何兆円だとかいう話も、まるでその数字の裏付けなど必要ないし「そんなこと聞くなよ野暮が」と言わんばかりに、のんべんだらりと垂れ流してきた。

 しかし「オリンピックがあるから何々を造る、造られる、それが当たり前」だなどというのは――

 いやしくも経済人として社会人として、あり得ないほど最低の考え方である。

 たかが2週間程度の祭典のためにそんなもの造って、日ごろ言っている費用対効果とかどうとかいうのは、いったいどこへ行ったのか。
 
 これこそが「ハコモノ批判」の出番であるはずなのに、不思議とメディアはオリンピックに限ってはそれを滅多に言わない。


 新型コロナは結果として、そういう「オリンピック真理教」なる邪教への鉄槌となった。

 国民の信仰は失われ、偶像は堕ち、ほとんどの人が望まないものとなってしまった。    

tairanaritoshi-2.hatenablog.com


 しかしおそらく、もしコロナがなく東京オリンピックがそのまま開催されていたとしたら――

 それはたぶん日本にとって、「経済大国最後の祭典」になっていたのではないかと思われる。

 次に日本にオリンピックの順番が巡ってくる頃には、日本は世界の経済大国ビッグ5から脱落している可能性が濃厚であった(と、私は思う)。

 近年の日本の低成長率がそのまま続けば、あと20年もあれば充分そうなっていたはずである。

(「もちろん」、オリンピックなんかがその挽回に繋がるわけはない。)


 その意味で、もしかすると東京オリンピックが延期になりあるいは中止されることは、日本にとっては良いことなのかもしれない。

 それこそが希望なのかもしれない。

 「オリンピックがあるから万博があるからマンションを建てます」

 などというのが普通に考えられたり受け止められたりする国が、これからも経済大国であり続けるなんて、世の中をナメきった話である。

 しかしもし、オリンピック中止でそうした邪教的考えが国民の意識からなくなったとすれば……

 それこそがまさに、健全な日本を再生する希望になるのではなかろうか。