プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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「本城惣右衛門覚書」に新(真?)解釈-本能寺の変の真相やいかに

 1582年6月2日早朝の「本能寺の変」は、「邪馬台国」と並ぶ日本史上の二大誘蛾灯である。

 およそ日本史に興味のある日本人で(日本史に興味のある外国人については、よくわからない)、この二つに興味を持たない人は変人と言っても過言ではない。

 邪馬台国についてはその所在地、

 本能寺の変についてはその真相、いや「真の黒幕は誰か?」というミステリーは、

 今後も(特に新発見がなければ)何十年も人々の興味を引きつけるだろう。


 さて本能寺の変について、ものすごく興味深く――

 ほんの少しでもディープな本能寺ファンなら、誰でも知っている史料がある。

 それが、「信長を襲撃した明智軍に従軍していた(一兵卒)、本城惣右衛門の覚書ないし回想録」というものである。

 本城惣右衛門がこの覚書を書いた、あるいは口述筆記させたのは、寛永17年(1640年)。

 そのとき彼は80歳か90歳だ、と自ら言っている。

(正確な誕生日いや誕生年さえ知らなかったらしい。昔の人らしいといえばそうである。)


 つまり、58年前のことを回想しているわけで――

 たとえ偽文書でないにしても、信憑性については疑問符が付けられても仕方ないと言えば言える。

 そしてこの覚書で特に重要で目立つのは、変当時の惣右衛門が、

「てっきり徳川家康を討つのだと思っていた」

 とされていたことである。

 思えば、世に溢れる「本能寺の変本」には、これを根拠に

「信長は家康を討とうとしていた。

 それが証拠に、一兵卒さえそれが不自然で驚くべきことだとは感じていなかった」

 と書いてあるものがどれほど多いことだろう。

 ところがどっこい、そういう読み方は間違いで――

「文脈的に京都へ向かう理由について、惣右衛門が「上洛中の家康への援軍に変更された」と理解していたのが正しいとわかった。」

 とのことである。

(⇒ 読売新聞 2020年11月1日記事:信長切腹「夢にも思わなかった」…本能寺の変、明智軍武士が述懐)

 ところで私は、この本城惣右衛門覚書が全文掲載されている、『業餘稿叢』(木村三四吾・編、昭和51年)という本を持っている。

 そこで、該当部分を書き出してみることも容易にできるのでやってみよう。

(原文はカタカナ部分などもあるが、読みやすく平仮名に改めた。)


****************

(原文)

 あけちむほんいたし、のぶながさまにはらめさせ申候時、ほんのふ寺へ我等より先へはい入候などといふ人候はば、それはみなうそにて候はん、と存候。

 其ゆへは、のぶながさまにはらさせ申事は、ゆめとも不申候。

 その折ふし、たいこさまびつちうに、てるもと殿御とり相にて御入候。

 それへ、すけに、あけちこし申候由申候。

 山さきのかたへとこころざし候へば、おもひのほか、京へと申候。

 我等は其折ふし、いへやすさま御じゃうらくにて候まま、いゑやすさまとばかり存候。

 ほんのふ寺といふところもしり不申候。 

****************

(訳)

 明智光秀が謀反し、信長様に腹を召させた(切腹させた)という時、本能寺へ我らより先に入(はい)り入(い)ったなどという人がいれば、それはみなウソに違いない、と思います。

 その理由は、信長様に切腹させるなんてことは、夢にも知りませんでした。

(※「その理由は」から始まるのなら「~からです」と続くべきだが、そうなっていない。)


 その時分、太閤様(羽柴秀吉)は備中に、毛利輝元殿と御対戦のためお入りになっていました。

 それへ、(秀吉を)助けに、明智光秀が来る・行くと言われていました。

 我々は山崎(※あの有名な、秀吉と光秀が争った「山崎の戦い」のあった所)の方へ行くのだろうと思っていましたが、思いのほか、京へ行くのだと言われました。

 我らはその時分、徳川家康様が御上洛中でありますので、家康様とばかり思っていました。

 本能寺という所も知りませんでした。
 
****************

 

 「家康様が御上洛中なので、家康様とばかり思っていました」を、

 「家康様を討つのだとばかり思っていました」が一般に流布した読み方で、

 「家康様に合流するのだと思っていました」が、今回の「正しいとわかった」読み方である。

 さて、これはどちらが正しいか。
 
 私としては、(そう言われてみれば、だが)今回の読み方が正しいと思う。


 この覚書が書かれたとされる1640年は、完全に徳川幕府時代である。

 むろん、この覚書は市販するようなものではないが――

 しかし、口述筆記する人、及び真の読者であるはずの惣右衛門の子孫が、「てっきり家康様を討つのだと思ってた」なんて聞けば・読めば……

 それは少なくとも、ギクッビクッという反応を引き起こすものではなかったろうか。

 私がもし惣右衛門なら、あるいは筆記者なら、少なくとも「恐れ多いことながら……」という前置詞を付けるのが自然だと思うのだ。


 惣右衛門は、山崎に行くのだと思っていた。

 本拠である亀山城を出発した明智軍はまず東に向かって「老の坂」を越え、「沓掛(くつかけ)」に着く。

 ここで南下すれば山崎に着き、そこから西進して中国地方(山陽方面)に向かう。  

 ターニングポイントは沓掛で、ここで南下せずそのまま東進して京都に向かうのは、惣右衛門にとって意外なことだった。

 なぜそうするのか、惣右衛門が思いついた理由が「徳川家康との合流」であるとするのは、確かに不自然なことではない。

 むろん、今の我々から見れば、それは不自然なことではある。


 家康は確かに上洛していたが、しかし軍勢を率いていたのではない。

 家臣・従者など含め、せいぜい数十名である。

 このことは、惣右衛門ら明智軍の末端兵士も知っていておかしくない。


 そしてまた、ターニングポイントである沓掛を東に、京に向かったそのとき、家康は京におらず堺にいた。

 家康は5月15日から17日まで安土城で(途中まで明智光秀に)接待を受け、

 5月21日に上洛して信長と面会、そこで堺・奈良などの見物を勧められる。

 家康は5月28日まで京に滞在後、29日に堺へ向けて出発。

 変の前日の6月1日には、堺の商人の茶会に出席している。

 だがこんなことは、惣右衛門ら明智軍の末端兵士が知るはずもないだろう。

 彼らが知っていたのは、家康が上洛した(京都に来た)こと、大軍勢を連れてきたわけではないこと、くらいのはずである。

 だから彼らが、自分たちが京都に向かうのは、京都にいる徳川家康と合流するためだと思ったのは、当時の兵卒としては不自然ではない。

 ただ、家康は軍勢を率いていないはずなのに、という違和感くらいはあったかもしれない。

 そして逆に、「軍勢を率いているわけでもない家康を討つのに、なぜ自分たち(1万人くらい?の)軍勢が使われるのか。それはもっと少人数で足りる仕事ではないか」

 と思った形跡がないのは、それこそ不自然ではなかろうか。


 ただ、私はそれでも一つ、不思議に感じることがある。

 なぜ惣右衛門は、自分たちが山崎でなく京に向かうのは、

「信長様と合流するためだ」

 と思わなかったのだろうか。

 私には、家康と合流するなんてことよりは、そちらの方がはるかに自然な思い方だと思える。

 信長がごく近未来に自ら中国地方に出陣するというのは、明智軍兵士らにとっても共通認識ではなかったのか。

  
 そしてまた光秀は、いよいよ本能寺に攻撃命令を出そうというとき、誰を討てと命じたのだろうか。

 惣右衛門は、本能寺に侵入・攻撃をかけたとき、それでもまだターゲットは信長だと知らなかったのだろうか。

 それがわかる新史料が発見されたら(もう一人ぐらい、回想録を残しておいてくれた人がいたら)、本能寺の変は、またフィーバーを迎えるだろう。