欧米で吹き荒れる人種差別撤廃ムーブメント――
別名「欧米文化大革命」は、ついに、
「アニメキャラの声優には、青のアニメキャラの人種と同じ人種の声優を当てなきゃダメだ」
というところに行き着いている。
つまり、黒人(らしい)キャラには黒人の声優を当てなきゃダメだ、
ベトナム系設定のキャラにはベトナム系の声優を当てなきゃダメだ、
そうしないのは人種差別だ、
という思想である。
(⇒ ヤフーニュース 2020年6月30日記事:アニメの「声」も「人種」どおりキャストせよ……俳優も謝罪。過剰反応? 今のアメリカでは当然の流れか)
もちろんこれ、大方の日本人にとっては、行き過ぎというか狂信的な思想に感じられるだろう。
しかしどうやら欧米では、これが大真面目な正義として受け止められているようなのだ。
上記引用記事では、アリソン・ブリーという白人女性が、ベトナム系アメリカ人キャラの声を担当したというので謝罪している。
「特定の人種のキャラクターは、その人種の人の声が当てられるべきだと、今は理解できる。
ベトナム系アメリカ人社会の人たちの、貴重なチャンスを奪ってしまった」
だそうである。
また、アニメ制作者のラファエル・ボブ=ワクスバーグという人も、
「アジア人のキャラクターに白人の俳優の声を当てることの必要性と理由を、そのうち説明しようと思ってきた。
しかし色々考えるうちに、そして周りの意見を聞くうちに、この判断が間違いだったと気づき始めた」
と述べるとともに、
「私は、アジア系アメリカ人女性のステレオタイプから離れるようにして、人種だけで定義されないキャラクターを作りたかった。
でも私は、別の方向に向かって書いてしまったようだ。
我々は、どこかで必ず人種で決まる『何か』を持っている」
とも言っているらしい。
皆さんは、これを聞いてたちどころに思うはずである。
この「我々は、どこかで必ず人種で決まる『何か』を持っている」というのは、まさに人種主義そのものではないか、と……
私は正直、ここまで行くのは狂信だと思う。
そういうことなら、惣流・アスカ・ラングレーみたいなハーフ設定のキャラは、まさにドイツ人と日本人のハーフの声優がやらなくてはならないのではないか。
少年設定のキャラを女性声優が担当するのは、少なくとも日本では「当たり前」のことだが、それもやっぱり、本物の少年を声優として使わねばならないのではないか。
もし「どこかで必ず人種で決まる何か」を持っている、
だからその人種のキャラはその人種の声優がやらなければならないのだ、
というのが正しいのだとすれば、
「人間は、必ずハーフであるかないかで決まる何か」を持っている、
「人間は、必ず男であるか女であるかで決まる何か」を持っている、
ということも、必ずや真であるはずである。
いやそれは違うと言うなら、なぜ人種だけがそうなのか、を説明しなければならないが――
きっとそれは、できない相談だろう。
しかしここで書きたいのは、そういう話ではない。
書きたいのは(思うのは)――
「もしこういう考え方がこれからの世界のスタンダードになるのなら、
それは結局、またもアメリカを利することになるのではないか」
という疑問である。
多様な人種をキャラに配し、そのそれぞれにまさにその人種の声優を当てるのが正義で、そうでなければ人種差別にされてしまうなら――
日本のアニメ制作会社は、もちろん日本だけを舞台にし、登場するキャラは日本人だけという作品を作るように(作りたいように)なるだろう。
それでいいならそれで済むが……
しかし今度は、
「日本人キャラしか登場させないのは、人種主義的で排外主義的である」
と欧米から言われるのは、火を見るよりも明らかな気がする。
結局のところ――
複数人種のキャラを登場させ、そのそれぞれに「政治的に正しい」人種の声優を割り当てられるのは、
その声優を容易に調達できる、初めから多人種国家であるところの、他ならぬアメリカを利することになるのではなかろうか。
それができない日本アニメは、(他の分野でもそうなったように)またも世界市場から駆逐されることになるのではなかろうか。
これは、「欧米の道徳基準を他の文化圏に押しつけ、その文化圏の文化や産業を破壊する」という、欧米人が盛んに反省してきたはずのことそのまんまにならないだろうか。
そしてもう一つ、思うのだが……
私はアメリカのアニメを見ることはないのだが、
アメリカのアニメには、イスラム系のキャラは(アメリカでの人口比に見合った比率で)登場しているものなのだろうか。
イスラム系キャラが毎日決まった時間、メッカに向かって跪いて礼拝しているシーンを、はたして充分に描いているのだろうか。
そしてまた、冷酷な殺し屋とか悪党といった役どころを、どの人種にどんな風に割り振るか、考えなくていいのだろうか……