9月8日、アメリカの映画賞として有名な「アカデミー賞(オスカー)」の主催団体は、
2025年(第96回)から適用される作品選考の新基準を発表した。
******************
(ELLE 2020年9月9日記事から転載)
【基準A 作品上の表現、テーマ、物語】
以下のうち、1つを満たさなくてはならない。
① 作品もしくは重要な助演俳優に少なくとも1人は、アジア人、ヒスパニック/ラテン系、黒人/アフリカ系アメリカ人、ネイティブアメリカン、中東/北アフリカの出身者、ハワイ先住民もしくは太平洋諸島の出身者、その他人種または民族的マイノリティの俳優を起用する。
② 二次的及びさらに小さな役の少なくとも30%は女性、人種/民族的マイノリティ、LGBTQ+、身体に障害を持つ人のうち、2つのカテゴリーの俳優を起用する。
③ 作品の主たるストーリーやテーマが女性、人種/民族的マイノリティ、LGBTQ+、身体に障害を持つ人を扱う。
【基準B 制作におけるリーダーおよびプロジェクトチームのメンバー】
以下のうち、1つを満たさなくてはならない。
① キャスティングディレクター、撮影監督、作曲家、コスチュームデザイナー、監督、編集、ヘアスタイリスト、メイクアップアーティスト、プロデューサー、プロダクションデザイナー、セットデコレーター、音響、資格効果の監督者、脚本家など、制作において指揮をとる役職のうち、少なくとも2人は女性、人種/民族的マイノリティ。LGBTQ+、身体に障害を持つ人を起用する。
******************
(⇒ ELLE 2020年9月9日記事:アカデミー賞、作品賞の選定に新たな基準を導入 キャストやスタッフにマイノリティ起用を求める)
おそらく、このニュースを聞いた日本人の大多数が、
「別にこんな基準満たさなくても、いい映画なら賞をあげていいじゃない」
と思ったはずである。
もっとも、賞の基準をどんな風に設定しようが、それは主催者の勝手ではある。
そもそもアカデミー賞のもともとの(ノミネートされる作品の)基準自体、次のように非常にローカルなものである。
●アメリカ・カリフォルニア州のロサンゼルス郡内の映画館で、
●連続する7日以上の期間で、
●最低でも1日に3回以上、上映された作品。
しかし問題と言えば問題なのは、こんなローカルなはずの賞が、世界中の誰でも知ってるような大権威な賞となってしまっている事実である。
今の欧米の風潮からすると、かのカンヌ映画祭のノミネート作品にも、こんな基準が設けられてもおかしくはない。
(アカデミー賞との「対抗上」、そうする可能性は充分ある。)
ところでこの新基準、やっぱり「アメリカにものすごく有利」な基準ではなかろうか。
(繰り返すが、本来アメリカローカルの賞なのだから、そうなってもおかしくはないのだが。)
日本映画がこの基準を満たそうとすれば、「調達」できそうなのはきっと「女性」だけである。
ある意味これは、アカデミー賞から日本映画を閉め出す「関税障壁」みたいなものだと言えるかもしれない。
むろんそんな意図はないはずだが、しかし事実上そういう風に機能するのではないか。
tairanaritoshi-2.hatenablog.com
映画好きなあなたもたぶんそうだろうが、私も以下のように思う――
その映画に白人だけしか出ていなくても、結構である。
黒人だけしか出ていなくても結構で、
白人だけ・黒人だけ・日本人だけ・韓国人だけが制作に携わっていてもいっこうにかまわない。
もちろん男性だけ、女性だけが出演し制作していても、気にもしない。
その映画が面白ければ、それが全てである。
いや、それが全てであるべきである。
思うにこの新基準に適応できるのは、誰が何と言おうと、
多様な人材を低コストで集めることができる大資本、またはアメリカ合衆国ではなかろうか。
私には、
「映画好きな男性だけの有志が、出演も制作も少人数で作った映画がアカデミー賞を獲る」
(当然、「女性だけ」「白人だけ」「黒人だけ」でもかまわない。)
というのこそアメリカン・ドリームだと思うのだが、
そういうドリームをアメリカは断ってしまうわけだ。
そして、こんな新基準が全世界に普及するのであれば……
ますます日本映画は世界進出の可能性がなくなり、
それを持つのは大資本をバックに付けたものだけ、
ということになってしまうだろう。