プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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大坂なおみフィーバーほか-「何が好きかは他人が決める」の世界

 先日の全米テニス決勝で勝ち、テニス界四大大会を制覇した大坂なおみ選手のフィーバーが収まらないとのこと。

 彼女が使用するヨネックス社製のラケット(税抜き3万5千円)は優勝後1週間で売上が4倍に伸び、

 勝戦ではめていたシチズンの腕時計(税抜き8万円)も予約が殺到し、

 テニススクールへの入会問い合わせも増えているらしい。

(⇒ スポーツ報知 2018年9月19日記事:大坂なおみ、フィーバー収らず 使用ラケット売上げ4倍)

 

(⇒ 産経新聞 2018年9月18日記事:ビジネスにも「大坂なおみ旋風」 ラケット、腕時計…関連商戦が過熱)

 
 そして彼女がハイチ系アメリカ人と日本人のハーフであることによる「人種」「排外主義」「純血主義」についての論説も、まだ多く語られている。

www.newsweekjapan.jp


 ところでこれは大坂選手に限ったことではないし、また日本に限った話でもないはずだが、私が昔から不思議に思ってきたことがある。

 それは、

「なぜ日本人が世界的“偉業”を達成したら、日本人はフィーバーするのか」という疑問である。


 これは一般に、ごく当たり前で自然なことだとされている。

 それどころか、そうあるべきだとされている。

 それは違うんじゃないかと言おうものなら、非国民と思われそうな勢いである。

 だが、これは本当に当然で自然なことだろうか。  

 私はこれ、自然どころか不自然なことだと思うのだが。


 「大坂なおみは純粋な日本人じゃないから、いったい日本人はどこまで喜んでいいものなのか」

 という疑問は、むろんネット上でボコボコに叩かれている。

 だがその叩き方にはどうも、「純血主義もいい加減にしろ。ちょっとでも日本人の血が入っているならいいじゃないか。どうして素直に喜べないのか」みたいなニュアンスが感じ取れるのだ。

 だが、どうして日本人の血がちょっとでも入ってたら日本人(日本代表)と見なしてよく、日本人が歓喜するのは「当たり前」で「自然」なのだろう。

 かつてペルーで日系人フジモリ氏という人が大統領になったことがあったが、私の感想は「へぇ」という以上のものではなかった。

 そりゃそうだろう、フジモリ氏のことなんて何も知らないし、別に日系人がなろうが誰がなろうが、この自分とは縁もゆかりもない人なのだから……

 

 いや、前からテニスが好きで、少なくとも国内の試合はテレビ(CSやBS)なんかで頻繁によく見ていた、というなら話はわかる。

 前から大坂選手のことは知っていて、以前からたとえ密かにでも応援していたというならわかる。

 最低でも、テニスというジャンルそのものが前から好きだったというなら、フィーバーするのは自然で当たり前と言ってよい。


 しかし、実のところはどうなのだろう。

 大坂選手の使っているラケットや腕時計を急遽注文する大勢の人、

 これからテニスクラブに入ろうとする大勢の人、

 そしてテレビの中やお茶の間や会社の雑談で「大坂なおみスゴイ」と言っている人たちは、

 本当に前からテニスに関心があったのだろうか。

 実のところその大部分は、

 ふだんテニスは見てないし大坂選手の名前も知らず、

 知っていたとしても顔と名前は一致せず、

 まして彼女がハーフだなんてこと思いもよらない(名前だけ見れば日本人としか思えない)、という人たちなのではないか?


 そのジャンルに大して興味がなく、その選手の名も顔も知らなかったのに、世界大会に優勝したら歓喜してフィーバーする……

 これが「自然」なことだろうか。

 逆にこれ、不自然極まることだと思えるのだが。


 そして人種や純血主義の話については――

 いっそ彼女が、日本に帰化(国籍取得)した純粋白人・純粋黒人だったら、日本社会の反応はもっと面白いものになったと思う。

 いや、帰化した中国人・韓国人だったらなおさらだろう。

 また、「大坂なおみ」という日本人そのものの名前ではなく、モロに外国系や李ナントカという名前だったら面白かったろう。

 このとき日本人がフィーバーするのかしないのか、その反応は非常にスリリングかつ試金石的でありそうである。


 ところで朝日新聞と言えば、ネット上では「反日左翼の諸悪の根源」みたいな言い方をされている。

 朝日新聞は、ことあるごとに日本の悪口を(世界に向けても)言ってきた、と言われている。

 しかしその朝日新聞ですら、「日本人がスポーツで活躍したら日本人がフィーバーする」ことを阻止することはできなかった。

 いや、阻止するどころか、むしろ煽ってきた/尻馬に乗ってきた、と言っていいだろう。

 スポーツ、そしてもう一つノーベル賞というのは、「日本嫌い」の朝日新聞ですら侵せなかった「日本人スゴイ」の聖域である。

 それはやっぱり、

 「日本人の血が入っている人(あるいは日本風の名前の人)が凄いことを成し遂げたら、日本人が喜ぶのは当然」

 という「自然な感情」には抗えないからなのだろう。

 しかしこの自然な感情というのは、血縁主義とか民族主義以外の何ものでもないと思うのだが、違うのだろうか。


 「そのジャンルに大して興味もなければ、その選手の名前も知らなかった」人がこんなにも大勢フィーバーする(と報じられている)のは、本当は誰がどう考えても不自然なはずだ。

 それが「自然」と捉えられているのは血縁主義の理由の他に、(あなたももちろん知っているように)

 「スゴいと報道されるからスゴいと思う」

 「人がフィーバーしてると言うから自分もフィーバーする」

 という人が、むしろ世の中で優勢を占めているからとしか考えようがない。

 
 だがそれにしても、世の中にはそんなにも感じやすい人が多いのだろうか、と思わざるを得ない。

 自分は何が好きか、何をスゴイと思うか――

 というのは、その人間の根幹を成す核とも言える部分のはずだ。

 自分は何をスゴいと思うかなんてことが、自分の心以外のところで生じるなんて、あり得ないこととさえ思える。

 しかし現実には、「自分が何が好きかは他人が決める」みたいな人が、想像以上に多いのだろう。 


 これほど感じやすい人・感化されやすい人が多いとなれば――

 しかもそれが「自然なこと」どころか「望ましいこと」だとあなたも考えるのであれば――

 そりゃあ、

 「あなたの悪口を言う人が出てくれば、周りのみんなもあなたをそういう目で見る」

 なんてことも、自然で望ましいことと納得しなければならないだろう。