9月28日にフジテレビで放送された「とんねるずのみなさんのおかげでした 30周年記念SP」において――
とんねるずの石橋貴明が往年の(1989年頃の)お笑いキャラクター「保毛尾田保毛男(ほもおだ ほもお)」に扮し、相方の木梨憲武及びビートたけしと競演してギャグをやるシーンがあったようだ。(私は番組を見てない。)
この2017年に、あの男性同性愛者をパロったキャラを復活させるとは、フジテレビもなかなか度胸がある……
と思いきや、さにあらず。
LGBT(レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)の団体らから猛抗議を受け、さっそくにフジテレビの宮内正喜社長は定例記者会見で陳謝・謝罪したそうである。
こういうニュースがあると、ネットには「これだからテレビが面白くなくなる」「ああいう(気持ち悪い)連中のクレームにいちいち謝罪するのはいかがなものか」という意見がたくさん書き込まれるものだ。
しかし、では――
たとえば韓国で「日本人をパロったキャラをテレビに出して笑いを取る」とか、
たとえば日本で「天皇の名を呼び捨てにする論客をテレビに出す」とかいうことがあれば、
おそらくそういう人たちはテレビ局を猛批判する側に回るか、少なくとも共鳴したり支持したりすることが多いと思われる。
結局人間は“自分がそれを好きか・嫌いか”で批判するか支持するかを決めるものであり、思想とか表現の自由とかいうものについても、むろん例外であるはずがない。
(と言うか、思想や“表現の自由には何が入って何が入らないか”こそ、「好きか嫌いか」で判断される代表格なのかもしれない。)
以前のブログ記事にも書いたのだが――
私は今の世界は「資本主義と共産主義」ではなく、「LGBTを受け入れるか否か」で二分されていると思う。
tairanaritoshi-2.hatenablog.com
tairanaritoshi-2.hatenablog.com
そして私は、もちろんと言うべきかLGBTを受け入れる側に立つ。
別に彼ら彼女らにシンパシーを感じているからと言うわけではなく――
(1)それは生まれつきの性向だから。小児性愛者と違い、基本的には他人に迷惑をかけないから。
(2)彼らを抑圧・蔑視するのはもったいないから。
という理由からである。
(2)について多少説明すると、LGBTの人たちの中には(当然ながら)俊才・英才・天才がおり、義人(義の人)と呼ぶべき人物がいる。
そういう人たちを世の中で“活用”しないのは、はなはだもったいない愚かなことだと思うのである。
(よってLGBTを認めない世界は、結局はLGBTを認める世界に後れを取る/差を付けられると思っている。)
今のところ日本は、一応LGBTを認める(差別・排撃しない)世界の陣営にある。
しかし、天下の地上波テレビ局が男性同性愛者を揶揄し笑いものにするキャラを公然と登場させる程度には――
それを「いいじゃないか」と思う国民が大勢いるほどには、いまだ「認めない陣営」の側に片脚を突っ込んでいると言えるだろうか。
ここで私には、疑問に思うことが二つある。
一つは、今どき「保毛尾田保毛男」なんてキャラを復活させれば、こんな炎上が起きることはバカにでもわかることではないかというものである。
テレビ局って、一応世間の最先端を行く――それどころか世間をリードするなんてイメージがあるものだと思うのだが、いったい彼らはこんな誰でも予想できることがわからないほどバカなのか?
それとも企画段階で「いや、これまずいですよ」と言う人はいたのだが、「うっせえよ、いいんだよ、懐かしキャラなんだよ、30周年記念番組なんだよ」なんて言われて一周されてしまったのだろうか?
もう一つは、保毛尾田保毛男がダメならば“ハードゲイ芸人”レイザーラモンHGはどうなのだろう、ということだ。
そしてまた、なぜ保毛尾田保毛男やレイザーラモンHGなど「男性の同性愛者」キャラはテレビ上で枚挙にいとまないほどいるのに、「女性の同性愛者キャラ」は全然いないのだろうということだ。
これはたぶん、「男性の同性愛者は笑いのネタになるが、女性の同性愛者はシャレにならない」という、我々の不思議な感性にあるのだと思われる。
テレビを作る側も観る側も、ずっと昔から「ゲイ(ホモ)」は嘲笑しても「レズ」はそうしなかった(触れようとしなかった)――というのは、なかなかに興味深い現象である。
さらにまた、私の好きなプロレス界には「男色ディーノ」(DDTプロレスリング)というゲイレスラーがいるのだが――
彼はまさしく「ゲイであることをウリにして、笑いを取っている」ことにかけては、日本最高峰にあると思われる。
いったい彼について、LGBTの人たちは何か抗議しているだろうか。
プロレスが「プロレスだから」で許されていることは多々あると思う(入場曲にオリジナル曲でなく既存の曲を、たぶんジャスラックに使用料を払わずにかけていることなど)が、これもその一つの例なのだろうか。