アパホテル本について、最後に一点。
アパホテルがその全客室に「南京大虐殺否定本」を置き、中国・韓国などの批判を受けても撤去に応じない――
という今回の件は、日本のネットユーザーの喝采と支持を受けている。
「ネットは見るだけで書き込まない」膨大な数の人たちのかなりの部分も、おそらくは同じ感覚を持っているだろう。
しかし、である。
本記事(3)でも書いたように、もしアパホテル本の内容が「南京大虐殺の実在肯定」であったらどうだったか。
「沖ノ鳥島は(中国の言うとおり)『島』でなく『岩』である。よって、日本が沖ノ鳥島を排他的経済水域の根拠とするのは無理筋としか言いようがない」などという内容だったらどうだったか。
果たして今回の件でアパホテルに喝采と支持を送っている人は、「これは言論の自由だ」「民間企業のやることなんだから自由に決まってるだろ」と、同じように擁護・肯定するだろうか?
また、アパホテルという会社のトップが書いた(自分にとって好ましい内容の)本を、当のアパホテルの全客室に置く。そして撤去しろと迫られても応じない――
だからアパホテルという会社を支持する・応援するというのは、ものすごく危険なことではないだろうか?
というのも、アパホテルの社員・従業員全員が、そのトップと同じ政治的意見・歴史意識を持っているわけは絶対にないからである。
「南京大虐殺はあった(と思う)、日本と日本人はアジア諸国に対して罪を犯した。深々と謝罪しなければならない」と思っている人も、おそらくは何人かいるだろうからである。
本記事(1)で書いたように、私自身はそんなことは思わない。
しかしだからといって、そういう風に思う人がいるのを否定はしないしケシカランとも考えない。
だいたい、人が何かを「思う」ことを止めさせることはできないものだ――たとえどんな鉄の独裁国家であったとしても。
だって「思う」んだから、しょうがないではないか?
言うまでもないことだがアパホテル本は、たまたまアパホテルのトップである“元谷外志雄”氏個人の書いた本である。
その見解は彼個人のものであって、当然すぎることながら、アパホテル従業員の見解を代表するものでは絶対にない。
しかしアパホテル本の「内容」と「撤去拒否」ゆえに“アパホテルという会社”を支持するということは、結局その内容も撤去拒否も、アパホテル従業員みんなが支持し・やっていることだと受け止められないではいない。
もちろん、悪いのはそう受け止める側である。
社長が自らの思想や政治的・歴史的見解を綴った本を自らの店に置いたからと言って、それが社員・従業員全員の総意であるなどと、受け止める方がおかしいのだし悪いのである。
だがそういう基準で言えば、世の中は悪い人ばっかであることは、みなさん周知のとおり――
もしあなたが、アパホテルの従業員だったとする。
そして「南京大虐殺なんてあったわけないだろ。そんなのは反日プロパガンダに決まってる」と常々思っているとする。
しかしそこにアパホテルの社長が、南京大虐殺は「あった」とする本を全客室に置くよう命じ、それが騒動になったとする。
むろん世間はアパホテルを叩きまくる……むろん社長だけではなく、あなたを含むアパホテルという組織(及びその構成員)全体が叩かれまくる。
当然あなたは「いや違う! 違うよ! オレはそんなこと思ってない! あれは社長個人の意見なんだ!」と言うなり思うなりするだろう。
それに対する代表的な反応として、「だったら(そんな会社は)辞めればいいじゃん」と書き込まれるのは請け合いである。
(しかし、あなたはもちろん辞められない――でしょう?)
とはいえネット界には救う神もあり、「いや、これって社長が自分個人の意見を職場を通して押しつけてるだけだろ? 従業員はむしろ被害者じゃないか?」とレスキューの書き込みをしてくれる人も必ずいる。
そう、もしアパホテル本が「南京大虐殺肯定」の内容だったら、必ずやそういう意見がネット上にたくさん見られたはずである。
これは社長の横暴であり暴走であり、従業員の思想信条を踏みにじる行為であるとの非難が、たっぷり浴びせられたはずである。
「社長(トップ)の政治的見解が、社員・従業員個々人の見解と同じと見なされる」――
これは、恐ろしいことである。
ただでさえ我々は、1人の従業員が何か不祥事を起こしたら、他の同僚従業員が電話やメールで責められまくるという“繋がりという名の鎖”が張り巡らされた社会に生きている。
アパホテルトップの政治的見解がアパホテル従業員一人一人の政治的見解の代表でも総意でもないことは明らかなのに、アパホテルを応援したいと思ってしまう――
これを“軍靴の音が聞こえる”という(今では評判の悪い)言葉をもじって言えば、まさに“全体主義の足音が聞こえる”である。
はっきり言えば元谷氏は、その著書をホテルの全客室に置くなどということはすべきでなかったろう。
それこそ普通に、書店販売やネット通販などで純粋に一個人の著書として、天下に内容を問うべきだったろう。
(しかしもちろん、今回のような大反響は得られなかったろうが……)
それならばまさに言論の自由・表現の自由・出版の自由であり、中国・韓国が何を言おうと知ったことではない。
だが、自社の従業員のいる「職場」にそれを置くことは、必然的に従業員の思想・信条の自由を(結果的に)侵害せずには済まないのである。
(あなたが勤務するホテルに、反キリスト教本・反イスラム本・反イスラエル本が備え置かれることを考えてみよう。)
民間企業という部分社会内であれば、社長はたいていのことを/何をしてもよいか。
職場や店舗に社長自身の“思想”“歴史観”“政治信条”、あるいは“宗教観”を綴った本を置くことは、従業員の思想信条の自由を踏みにじる行為ではないか――
今回の件は、たまたま今の日本国民の好みに合った本の内容だったから、こういう疑問を呈されずに済んでいる。