これは誰でも疑問に思うことのはずだが――
人は皆ことごとく、「適材適所の人事をする/せよ」と言う。
しかしもし本当に適材適所が実現したとすれば、もうそれ以上の人事異動はできなくなることにならないか?
できるとすればそれは、退職とその補充のみになるはずである。
しかも前記事までに述べたAI人事の下では、(現在のほぼ全ての会社がそうであるように)管理職の退職補充は従来の非管理職が繰り上がってなされるのではない。
いま非管理職である者は、管理職の適性がないと判定されたからこそ非管理職であるからである。
(よって新管理職は、ヘッドハンティングまたは管理職適正判定を受けたどこかの誰かを募集することで補充されるだろう。)
これはまさに、生まれながらに身分が固定されていた江戸時代の身分制社会であるかのようだ。
――あるいは、「適性カースト制」とでも言おうか。
このことは、社員の士気にもちろん悪影響をもたらすだろう。
今の日本で、もし働く人に「出世したいですか? 昇進したいですか?」とインタビューすれば、百人中百人が「いいえ」と答えるに違いない。(あなたもそうでしょう?)
出世したい昇進したいとあからさまに表明するのは、今の日本では「恥ずかしいこと」という以上に「悪いこと」とさえ受け取られているからである。
しかしむろん、その百人中の何割かは確実に嘘をついている。
彼ら彼女らは実は昇進したいのであり、同期の誰かが自分より先に昇進すれば「なぜだ」「間違ってる」と怒り、ショックを受けるのである。
そしてまた経営者ら上層部にとっても、(適性がないとわかっているにも関わらず)ある社員を昇進させられないというのは、かなり深刻な問題だろう。
これへの対策としては、職位と給与を分離する、というものがある。
いくら営業マンとして優秀でも管理職にはさせられない――ずっと今の職位にとどまるのが、組織にも彼自身にとっても有益とわかっているから――が、しかし給与は高くする。
これにより、成績優秀な営業マンの給与が、その上役である管理職氏の何倍にもなることもあり得る。
だが、それでもやはり職員の昇進というのは、「功績に報いる手段」のうち最も効果があり最も求められるものには違いない。
(そして役所など非営利組織については、唯一の「報いる手段」だろう。給与をそんなにバカ高くはできないから……)
その手が使えないとなると、問題は極めて大きい。
しかもこのネオ身分制は、今までの人間による判断(誰を管理職にするか、どこに配属するか)とは違い、科学的かつ私心も情実もない。
AI判定という誰もが認める(だろう)客観的・確実的な基準に支えられているのだから、文句のつけようもない。文句をつける者は愚か者とみんなに見なされるだろう。
だがそれでいて、自分のなりたい存在になれないと判定された者――この世の大多数の者――の絶望感と無力感は、いかばかりのものだろうか?
AI人事に反抗する者は愚か者である。彼・彼女は確実に間違っている。そして、それ以上に迷惑である。
向いてないとわかっているものになろうとするのは/なってしまうのは、他の誰にも迷惑をかけてしまうことである。(ただ、ライバル会社は喜ぶだろうが。)
そんな迷惑な奴は初めから雇うな、雇っておくな――
経営者のみならずみんながそう思うのは、ごく自然なことに思える。
どうやら我々は、新しい身分制社会の入口に立っているようである。
いや、本当はもうすでにその中を生きている。
我々は、能力のある人が出世したり金持ちになるのは当たり前だと――むしろそういう形で報いられるべきだと思っている。
それがまっとうな世の中であり、健全な資本主義社会のあるべき姿だと思っている。
(ただし、これには例外がある――そういう人が自分の身近な人物の場合である。)
ところで能力とは何か、適性とは何か。
それは、生まれながらのものである。
かつての人間は、高貴な生まれの者を尊敬してきた。高い地位には、血統の尊い者が就くべきだと思ってきた。「家柄貴族」の時代である。
今それは廃れ、代わって能力のある者が高い地位に就くべきだと考えるようになった。「能力貴族」の時代である。
しかしこの二つ、「生まれながらのもの」に根拠をおいている点で、全く違いがない。
そしてこれからのAI人事時代、生まれながらの能力貴族は、さらなる科学的根拠を持って高い地位に就くことができる。
一方で、生まれながらの能力貧民は、一生低い身分のままである――ヘタをすれば、就職さえもできないことになる。
しかもそれは、みんなにとって正しいことなのだ。
会社が転職者を受け入れるのは、そして新卒者をざっくり採用するのは、結局その人たちの能力や適性がわからないからである。
もしそれが、AIによってわかっているとしたら……
能力貧民の転職活動・就職活動は、今よりもずっとずっと厳しすぎるものになろう。