京アニ放火大量殺人事件の犠牲者は34人に上り、その身元を近く公表するかどうか現在検討中だそうだ。
犯人の男はいまだ重体らしいが、「生きて裁かれるべき」と考える人も、例によって彼(の弁護士)が精神異常で無罪を主張するだろうことを思うと、余計ムカついてくるだろう。
(だから、「精神病犯罪者を一生収容することを求める会」で選挙に打って出れば議席が獲得できそうだと思うのである。)
tairanaritoshi-2.hatenablog.com
さて、例によってこの犯人について、事件前から粗暴だったとか父親がロクデナシだったとか、いろんなことが報道されている。
しかしこの事件の深因は、家庭環境などとはまた別の所にあると思われる。
もちろんそれが完全に正しいなどと断言はしないが、その深因を一言で言えば――
「才能の不平等」に対する蜂起・激発
ではないか、と思えるのだ。
今まで人類は、身分や家柄や人種による不平等を被ってきた。
しかし現在、それらは克服された。
克服されたとしては言い過ぎかもしれないが、少なくともそういう不平等が「悪」だ、というコンセンサスはほぼ固まってきた。
そうなると最後に残された不平等とは、むろん誰でも考えつくとおり、「才能の不平等」である。
そしてこの才能の不平等というものは、他の不平等とは全く逆に、「善」あるいは「是」とされているのが世の中のコンセンサスなのだ。
いったい今ほど、才能や才能ある人間がもてはやされる時代があったろうか。
昔だったらいくら或る分野で才能があっても、身分や家柄が低ければ世の中全体から賞賛され敬われることはなかった。
しかし今は、とにかく何らかの才能がありさえすれば輝ける。「知名人」という現代版貴族になれる。
それが言い過ぎだとすれば、輝く可能性や貴族になれる可能性がある、と言い換えよう。
これは現代では「実力主義」と呼ばれ、世の人から「いいこと」とされている。
しかし言うまでもなくこれは、「生まれながらの才能」で全てが決まる、それこそ善だとするのが今の社会だ、ということでもある。
つまり生まれながらに能力のない者は、輝けないどころか輝くべきでないとさえされている。
これが生まれながらの家柄や身分で人生が決まっていた社会とどれほど違うのか、なかなか説明は難しいのではなかろうか。
京アニ放火殺人事件の犯人が精神異常とか粗暴だとか言う前に、まず「才能なき者」だということは、ほぼ全ての人が認めるか感じるだろう。
私は京アニのアニメを見たことがないので、それが世界的評価を受けるほど「愛と優しさ」の「美しい世界」を描いたものなのかはわからない。
ただ、多くのメディアでそう言われているのでそうなのだろう、と思うばかりだ。
しかしもちろん私もあなたも、そういう作品を見た人の全員が、優しい気持ちになったり感動で涙ぐむ人ばかりではないだろうことは想像できる。
能力なき者、あるいは運のない者がそんなのを見れば――
「才能の不平等」あるいは「機会の不平等」に燃えるような怒りを感じるだろうことは、それこそ火を見るより明らかではないか?
おそらくこれからは、才能の不平等への怒りを深因とする激発犯罪が増えるはずである。
世の中が才能ある人をもてはやすほど賞賛するほど、不平等への怒りはますます燃え上がる。
今回は京アニという会社が狙われ、特定の個人が標的というわけではなかったが……
これからは具体的には、有名で賞賛されるクリエイターや芸能人、経済人、学者、スポーツ選手らが標的になるのではあるまいか。
つまりは、世の中の広く知られた(特定の分野でもよい)成功者たちである。
もっともこれは、現代日本に特有的な現象とも言えない。
日の下に新しいものはなく、その最も著名で最高峰とも言うべき事件は、リー・ハーヴェイ・オズワルドによるケネディ大統領暗殺である。
オズワルドの背後には軍やCIAやマフィアの陰謀があったかもしれない、とか論じるより――
それは「負け組の勝ち組に対する史上最大の勝利」である、と解した方が、はるかに意味深くなるだろう。
若くてハンサムで金持ちで美人の妻を持ち、さらにそのうえ世界の頂点に立つアメリカ大統領である男を、元海兵隊の貧乏負け組男が射殺する。
あれはやっぱり、同じ人間でありながらあまりに境遇が違うことに対する、能力と運なき男の「なんでこんなに違うのか」という蜂起だったのではないだろうか。
世界を感動させる作品を生み出す能力を持ち、輝く人生を送るリア充(と、外からは見える)である個人や人間集団――
それに対して才能や運なき者たちが、不平等への憎悪と嫉妬と怒りを向ける。
なんであいつらはキラキラ輝き、自分はそうでないのかと心が燃え上がる。
これは極めて、誰にも納得できる成り行きのはずだ。
はたして人間は「才能の不平等」をどう克服するのか、これは世の中の最大級の課題だろう。