世の中には昔から、「天才」や「神童」がいる。
それは今では「天から飛び抜けた才能を授かった者」として「ギフテッド」と呼ばれている。
そのギフテッドの子どもたちが「フツーの同年代」一緒に授業を受けるのが苦痛だとか、イジメを受けてしまうとかいう問題は、以前からよく知られていた。
これについて文部科学省は、来年度から支援に乗り出す方針を固めたとのこと。
ただしその内容は、
「ギフテッド向けの学習プログラムを展開するNPOなどの情報を提供」とか
「ギフテッドへの理解を深めるための教員研修を充実」とか、
どうも直接的に「飛び級」させるとかではないようだ。
(⇒ 朝日新聞 2022年8月7日記事:飛び抜けた能力、なじめない学校 文科省「ギフテッド」の子を支援へ)
私はこれについては、さっさとギフテッドは他の普通の子どもとは分離して「飛び級」なり「大学進学」「英才教育」した方がいいと思う。
あるいはスポーツとか将棋とかいった分野なら、いきなりプロになるという手もあるだろう。
それを言うと「分断だ」とかいう話になるのだが、もともと才能面ですでに分断されているのだから、いまさらそんなこと言っても仕方ないとしか言いようがない。
むろんギフテッドの「特別扱い」を危ぶむ立場も「フツーの子どもとの同席」はもう止めるべきだとする立場も、共通するのは人間の「嫉妬」という感情の存在である。
これがなければ、問題は非常に簡単になるのである。
さて、ここで私がいつも思うのは、
「何かの分野の天才が生まれてくるのは、ごくありふれた当たり前のこと」
及び
「飛び抜けた才能を持って生まれてくるのは、宝くじに当たるのと全く同じこと」
という2つだ。
要するにそれは、世の中で必ず起こる自然現象なのである。
ギフテッドとして生まれてくるのは、ただの偶然なのである。
宝くじに当たった人がそのカネをどう使おうと、自由である。そりゃ何かに使うだろう。
同じく飛び抜けた才能を持って生まれてきた人は、その才能を自由に伸ばして使い、勝手に活躍すればよい。
私は歴史上の「天才」とされる人物を見ても、別に感動も嫉妬もしない。
それはただの偶然の産物だからである。
(特に、飛び抜けた軍事的才能というのは非常にありふれて発現するものであるようだ。)
だから今の世の中も、ギフテッドがいても何も瞠目することはない。
そういう才能を持って生まれる人は必ずいるのだから、何を驚くことがあろう。
だから別に、「驚異の才能」とか言って持ち上げたり仰ぎ見る道理はないのである。
もちろんみんな、宝くじに当たった人は羨ましい。
しかしだからと言って、宝くじに当たった人を潰そうとか宝くじ制度自体を廃止しようとすることはない。
(宝くじに当たったのが誰かわからない、ということもあるが……)
よって、ギフテッドのことも宝くじに当たった人と同様、勝手に活躍すればいいと思えるのではないか。
それがむしろ、あるべき態度ではないか。
嫉妬もしないが尊敬もしない、たまたま才能があるなら自由にそれを伸ばせばよい、自分とは関係なく勝手に活躍すればよい――
この心の持ちようで、ギフテッドもそうでない人もどっちも「救われる」のではあるまいか。